松坂大輔、悔し涙で終わったシドニーの427球。人知れず「もがき苦しんでいた」プロ2年目 (2ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Koji Aoki/AFLO SPORT

 2000年、シドニー五輪に出場する日本のエースとして、20歳になったばかりの松坂は南半球の地に降り立った。オリンピックという舞台で日本代表のど真ん中に身を置いた松坂は、感じたことをこんなふうに表現した。

「やっぱり、出てみないとオリンピックのすごさはわからないんだなって思いました」

"オリンピックはすごい" ──。

 1本のヒット、1つのミス、1点の価値、そして1敗の重み。松坂はシドニーに来て、鳥肌が立つような恐怖感と日の丸がもたらす緊張感にシビれっぱなしだった。

「オリンピックに出るってすごいことだったんだなって......アマチュアの人がどんなにオリンピックを待っていたか、どんな気持ちでここに来ているのか。そういう執念は、出てみて話を聞かないとわからなかった。食事会場でアマのみんながそういう話をしていました」

 アマチュアのものだったオリンピックの野球に、初めてプロの選手が参加したシドニー五輪の日本。しかしこの時の"全日本"は、オリンピック史上初のメダルなし、という屈辱を味わわされた。

 しかもその時、松坂は迷走していた。

「プロ2年目は、僕、完全にもがき苦しんでましたからね。何かを目指している作業のなかで苦しんでいる時って、周りにはわからないじゃないですか。苦しんでるか、そうでないかというのは、結局、成績でしか見ないでしょ。悪い結果だと苦しんでる、結果が出れば苦しんでないって言われますけど、そうじゃない。2年目はホントに苦しかった......」

 最多勝、ベストナイン、最多奪三振まで獲得したプロ2年目を苦しかったと表現するのだから、たしかにその苦しみは結果からは窺い知ることはできないものだった。

 ただし、その苦しい2年目のなか、本当に結果を残すことができなかったのがシドニー五輪での3試合だ。松坂は初戦のアメリカ戦、予選突破をかけた韓国戦、3位決定戦となった決勝トーナメントの韓国戦の3試合に先発した。しかし日本はその3試合、ひとつも勝つことができなかったのである。

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