2021.07.09

「ポスト野村克也」と称された男は「根本信者」となり、阪神の編成トップへと上りつめた

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

 当時、野村が35歳で黒田は23歳。年齢的にも世代交代を考える時期に来ていた。だが、現実は違った。

「ずっとノムさんの控えですから。一軍にはおるけど、ほとんどゲームには出られなかったです。出ても、ノムさんがしんどい時とか、ケガした時。オープン戦はレギュラーやったけどね」

 根本と初対面の時、黒田はプロ3年目で一軍公式戦出場は合計8試合。野村が右ヒジを故障した4年目の1974年は36試合に増えるも、二番手は3年先輩の柴田猛で、翌年からは減少に転じる。

 まして、この控え捕手人生はプロで始まったことではない。話は前後するが、法政大時代には1学年上に田淵幸一(元阪神ほか)が正捕手でいて、黒田は3年間、控えを務めている。

「本当は法政には行きたくなかったんですよ。田淵さんがおるから。でも、監督より上の立場の先輩理事の人が『田淵は腰が悪いからファーストに転向させるよ』と言うから......。それで行ったんですけど、監督の松永怜一さんは田淵さんが法政一高にいる時から見ているから。そら、あかんやろうなと思いました」

 法政大出身の松永の指導者人生は法政一高に始まり、就任8年目の1962年に田淵が入学。一時、1964年に堀越学園の監督を務めたが、翌年、田淵の進学と同時に法政大の監督に就任する。"法政三羽烏"と呼ばれた田淵、山本浩二(元広島)、富田勝(元巨人ほか)、エースの山中正竹を中心とするチームをつくり、1968年までの4年間、リーグ戦で3度の優勝を果たしている。

 もっとも、山中は黒田と同期。1学年下の選手の頑張りがあって勝てたという自負があった。現に、"三羽烏"卒業後の1969年も秋のリーグ戦で優勝。すると同年のアジア大会、黒田は山中らとともに全日本メンバーに選ばれた。最終的には自分たちで確かな成果をあげたのだが、入学当初は同期の江本孟紀(元東映ほか)らとボヤいていたという。

「江本とふたりで合宿所に入っとったからね。『失敗したな、こんなとこ来て』って。僕ら、ちょっとひねくれてたから(笑)。『でも、今さら田舎には帰られへんし、4年間、辛抱しよか』と。まあ、そういう苦労があったから、今があると思うんやけど」