2021.07.09

「ポスト野村克也」と称された男は「根本信者」となり、阪神の編成トップへと上りつめた

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

 誘いがあった大学のなかに、首都大学リーグの大東文化大があった。当時監督だった岡田悦哉が明治大出身で、姫路南高監督の安藤邦夫の大学の後輩にあたる。だから岡田は「安藤さんに言われて来ました」と黒田に言った。明治大での安藤は捕手としてプレーし、のちに"フォークボールの神様"と称される杉下茂(元中日ほか)とバッテリーを組んでいた。

「僕は高校の時にピッチャーもやっていたんですけど、安藤さんに『おまえ肩が強いからキャッチャーやれ』と。それでプロに入ってから杉下さんに会うと『監督、元気か?』っていつも言われてね。しかも岡田さんは、根本さんと古い間柄だったんですよ」

 根本は広島の監督時代、岡田を二軍バッテリーコーチに招聘している。その岡田の球歴は関西高-明治大-丸善石油と、プロを経験していない。それでも根本自身、社会人の新日鉄堺で指導した経験もあり、アマ球界には優れた指導者がいることを把握していた。アマの知識を注入し、プロ野球の閉鎖性を打破したいという考えが根底にあった。

「普通、アマチュアの人は呼ばないですよ。でも、根本さんはダイエー(現・ソフトバンク)の監督の時も、プロ経験のない有本義明さんを二軍監督に呼んだでしょ? 僕はこの有本さんと田舎が一緒の姫路で、今でも懇意にしていまして、法政を卒業する時に『本田技研に来い』って言ってくれた人でもあったんです」

 有本は兵庫・芦屋高で甲子園大会に4度出場。1949年のセンバツで準優勝した時のエースで、慶應義塾大に進んだあと内野手に転向。卒業後はスポーツ新聞社の記者としてプロ・アマ野球の論評で健筆を振るい、運動部長などを経て野球評論家に転身する。評論活動の傍ら社会人チームの指導にも携わり、本田技研を見ていた時に黒田に声をかけ、1970年、入社に至った。

 本田技研は同年の都市対抗に出場し、攻守に活躍した黒田は同大会の優秀選手賞を獲得。社会人ベストナインにも選出されると、その年のドラフトで南海に6位で指名されて入団。4番で正捕手を兼任する監督の野村克也からも、将来のレギュラーを期待された。