「ポスト野村克也」と称された男は「根本信者」となり、阪神の編成トップへと上りつめた

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第27回
証言者・黒田正宏(1)

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 1973年のシーズンオフ。南海(現・ソフトバンク)の若手捕手だった黒田正宏は先輩の樋口正蔵に電話で呼び出され、大阪・北区にある久保田運動具店に向かった。この歴史あるスポーツ用品メーカーは、在阪球団のユニフォームを製造するなどプロ野球との関わりも深く、当時、梅田新道にあった本店は「野球人のたまり場」と呼ばれるほど球界関係者が集まっていた。

 その「たまり場」において、樋口が頻繁に顔を合わせていたのが根本陸夫だった。前年に広島の監督を辞した根本が、近鉄時代から住んでいた神戸に戻り、大阪で鉄鋼関係の会社経営に携わる傍ら、朝日放送で野球解説者を務めていた。

阪神の編成部長、ヘッドコーチなどを歴任し、現在は評論家として活躍する黒田正宏氏阪神の編成部長、ヘッドコーチなどを歴任し、現在は評論家として活躍する黒田正宏氏 一方の樋口は、左の巧打者として1962年から南海で活躍。1971年限りで現役を引退したあとは、やはり大阪で鉄工所を経営していた。その点、根本とは同じ業界で接点もあったようだが、両者は法政大の先輩・後輩の関係でもある。

 そして黒田も同大出身であり、南海入団時から面倒を見てもらった樋口から「根本さん、来とるから来いよ。呼んどるぞ」と誘われたのだった。

 のちに西武で根本から薫陶を受ける黒田だが、この時が初対面。選手・指導者として西武黄金期を支え、その後、阪神の編成トップとして手腕を発揮した野球人生は、根本と通じるところもある。はたして、原点の出会いはどんなものだったのか。そもそも、なぜその場に呼ばれたのか──。球界内では「根本信者」とも称される黒田に聞く。

「樋口さんに聞いたら、『そうや、おまえ、黒田呼べよ』って根本さんが言ったんだそうです。それで久保田運動具店の裏にある串カツ屋に行って、3人で食事したんですけど、初めてお会いした根本さんの印象いうたら、ダンディで、キリッと引き締まった表情でね。『おまえ、なに飲むんや? ビール飲めよ』って言われて。

『そんなら根本さん、どうぞ』って注ごうとしたら、『オレは飲まへん!』って(笑)。きっとたくさん酒飲むんやろうなと思っていたら、一滴も飲まない。じつは根本さんが飲まないのは有名やったけど、その時は知らんからね。実際、僕は(根本が現役だった)近鉄時代のことも知らんかったし、最初、プロ野球の先輩とは思ってなかったんです」

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