名参謀・橋上秀樹が語る名将3人の違い。「原辰徳監督は一から十まで自分で判断をしたい人」 (4ページ目)

  • 岡田浩人●取材・文 text by Okada Hiroto
  • photo by Kyodo News

 野村監督が就任した楽天は2006年こそパ・リーグ最下位だったものの、2007年は4位に浮上。2008年は5位となったが、2009年には2位と躍進し、球団初のクライマックスシリーズ進出を果たした。ヘッドコーチを務めた橋上氏は野村監督のもと、時に戦略的な提案をしながら、弱小チームを上位に導くための策を練った。

「楽天は選手層も薄く、当初はなかなか勝てないチームだったので、結構思い切ったことを提言できる環境でした。特に選手起用です。普通にやっていてはなかなか勝てない。相手チームとの戦力差もあったので、失敗も覚悟である程度"奇襲"を使わなければいけないチームでした。

 例えば、あの頃(06年)は交流戦に予告先発制度がなかったので、巨人戦で、それまで全然ローテーションで回っていなかった左投手を急きょ一軍に上げて投げさせたこともありました。ちょうど先発ローテーションの谷間で、対戦データを見ると圧倒的に左投手が打たれてなかったので、野村監督に『困ったら左でいきましょう』と言ったんです。『ウチに投げられる左投手は誰がいるんだ』と言われて、それまで中継ぎだった有銘(兼久)や川井(貴志)を提案しました。

 試合前の練習ではわざと外野のポールとポールの間をこれ見よがしに走らせて、コイツは先発じゃないという感じでカムフラージュしました。二人が先発した試合はどちらも勝った。野村監督もそういう先発起用は面白がって喜んでいましたね」

(後編に続く)


Profile
橋上秀樹(はしがみ・ひでき)
1965年11月4日生まれ、千葉県出身。安田学園高を卒業後、1983年にドラフト3位でヤクルトに入団。日本ハム、阪神を経て、2000年に現役引退。2005年に新設された楽天イーグルスの二軍外野守備・走塁コーチに就任し、シーズン途中に一軍外野守備・走塁コーチに昇格。以降、独立リーグの新潟アルビレックスBCの監督、巨人の一軍戦略コーチ、第3回WBC(2013年)の戦略コーチ、楽天一軍ヘッドコーチ、西武の一軍野手総合コーチなどを歴任。現在は再び新潟アルビレックスBCの監督を務める。

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