巨人OBでヤクルト初優勝時の守備の名手。現役晩年、打撃は「新田理論」で開眼した (4ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

――ヤクルト時代の船田さんはベテランの域に達していましたけど、自らも怠慢プレーを厳しく律していたんですか?

八重樫 そうですね。決して手は抜かなかったです。規律が厳しかった頃の巨人のメンバーとして、「全力プレーは当然のこと」という教えが沁みついていたんだと思いますよ。特に広岡さんはそういうところに厳しい人でしたから。広岡さんが言う前に、若手に指導していたから、広岡さんとしても助かっていたんじゃないのかな?

――船田さんは1980年に現役を引退されました。現役晩年の印象は?

八重樫 いつだったのかは忘れちゃったけど、引退前に肉離れをやっちゃったんですよ。その頃から、急激に衰えていった印象がありますね。走塁はもちろん、自慢の守備も、かつてのような足の運びができなくなっていましたから。

――実働19年、38歳での現役引退でした。ご本人としては完全燃焼したのでしょうか?

八重樫 いや、「まだまだやりたい」という思いだったと思いますよ。ちょうどその頃から、水谷や角(富士夫)が出始めてきて出番も減りつつあったし、球団からも「彼らの面倒を見てくれ」と言われたんじゃないのかな? そういう意味では、未練を残しつつの現役引退だったんだと思いますね。

――現役引退後は指導者としてヤクルトで活躍されました。そのあたりのことから、50歳での早すぎる死について、ぜひ次回伺いたいと思います。

八重樫 船田さんの死は突然のことだったので、僕もまだ消化し切れていない部分があります。そのあたりはまた次回お話ししましょう。

(第71回につづく)

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