巨人OBでヤクルト初優勝時の守備の名手。現役晩年、打撃は「新田理論」で開眼した (2ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

――1972年のヤクルト移籍後、船田さんはすぐにチームに溶け込めたんですか?

八重樫 話好きという人柄もあるし、若手にも積極的にアドバイスする先輩でした。あの時代にはそういうタイプの人は少なかったけど、船田さんは同じ内野手の水谷(新太郎)にいろいろ教えていましたよ。あの頃の巨人出身の選手ってプライドが高くて、偉そうにしている人が多かったんです(笑)。でも、船田さんにはそういうところがまったくなかった。僕らからしても、接しやすい人でしたね。

【現役晩年、「新田理論」で打撃が開眼】

――船田さんの経歴を見ていると、V9直前期にレギュラーに定着して"ON"とともに試合に出ていたり、若い頃から実力が認められていた印象があります。

八重樫 とにかく守備が抜群でしたよね。足の運びが上手だったんでしょう。一緒にノックを受けていても、全然違いましたから。僕も、足の運びのアドバイスを受けたけど、なかなかついていくことができかったな。ただ、バッティングはそんなに目立つほうではなかったんです。ヤクルトに移籍してから打撃が開眼した印象が強いんですよ。

――打撃開眼には何かきっかけがあったんですか?

八重樫 広岡さん時代の1976年ぐらいかな? あの頃、ヤクルトの練習に新田恭一さんが来ていたんですよ。「新田理論」って知っていますか?

――プロゴルファーであり、松竹ロビンスの監督も務めた新田さんの打撃理論ですよね。

八重樫 そうそう。あの頃、週に1、2回は新田さんが神宮の室内練習場に現れて、一部の選手に打撃指導をしていたんです。僕は指導を受けなかったけど、特に船田さんが熱心に教わっていて、その頃から打撃がすごくよくなっていったんですよ。

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