「あれほどの大投手になるとは...」八重樫幸雄が見た高津臣吾の試行錯誤と勝負師の顔 (4ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

――以前、高津監督にインタビューした際に、「1993年の夏頃に100キロ台のシンカーをマスターした」とおっしゃっていました。この頃から相手打線は手も足も出なくなり、結果を残し始め、1993年の日本シリーズでは西武打線をきりきり舞いにさせましたね。

八重樫 僕もまだ現役だったので、ブルペンの臣吾の様子をよく覚えていますよ。彼はいつも、いろいろな握りを試していた。親指と人差し指で輪っかを作って「OK」の形にして投げてみたり、縫い目の位置をいろいろ変えたり、小指側から手首を返してみたり。ちょうど、野村さんに「遅いシンカーをマスターしろ」って言われていた時期ですね。

――このシンカーをマスターしたという1993年夏以降、高津さんは一気に不動のクローザーに成長していきました。

八重樫 正直に言って、あれほどの大投手になるとは思っていなかったよ。本当に勝負強くて、切り替えのうまいピッチャーになった。彼のいいところは、ピンチにも動じないこと。打たれても、すぐに切り替えができること。本当にクローザー向きの性格だと思います。普段はとても愛想のいい男なんだけど、マウンドに上がると一気にスイッチが入るというか、勝負師になるんだよね。

――高津さんといえば、『プロ野球珍プレー好プレー』で、アフロ姿でクリスタルキングの『大都会』を歌う場面が話題となりました。普段の高津さんはどんな方なんですか?

八重樫 今も言ったように、とても愛想のいい男です。先輩にも、後輩にも、分け隔てなくつき合うことができるヤツでね。次回はそのあたりをお話ししましょうか。

(第66回につづく>>)

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