「あれほどの大投手になるとは...」八重樫幸雄が見た高津臣吾の試行錯誤と勝負師の顔 (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

――確かに、まとまってはいるんだけど、相手に与える威圧感のようなものはなかった印象があります。

八重樫 そうなんですよ。投げ方は特殊なのにボールはすごく素直だったから。小さくまとまっているというのか、こじんまりしている感じだったよね。バッターとしては、サイドスロー、アンダースローは荒れ球のほうが絶対に打ちづらいんですよ。その点、臣吾は素直なボールでしたね。

――たとえば、1970年代の巨人・小林繁投手、阪神・上田次朗投手、ヤクルトの会田照夫さんなどはボールの勢いもあり、荒れ球のイメージがありますが、いかがですか?

八重樫 僕が高校生だった頃、上田さんが教えに来てくれて、ボールを受けたことがあるんです。自分がまだ高校生だったってこともあるけど、あのときは真っ直ぐにしても、カーブにしても、すべての球種が浮いてくるんですよ。うちの高校のピッチャーもアンダースローだったんだけど、勢いがまったく違って驚いたね。臣吾のボールにはそれがなかったかな。

【1993年夏、「100㎞台のシンカー」をマスターして大飛躍】

――そんな高津さんが、クローザーとして大輪の花を咲かせます。高津さんのプロ3年目、そして八重樫さんの現役最終年となる1993年に、高津さんはリリーフに転向して、抑え投手として大活躍しました。その要因はやはり、チェンジアップ気味のシンカーをマスターしたことでしょうか?

八重樫 間違いなくそうでしょうね。ノム(野村克也)さんはコントロールの悪いピッチャーが大嫌いなんです。というのも、せっかくキャッチャーが一生懸命リードを考えても、そこに投げることができないと何の意味もないから。そういう意味では、臣吾のことは好きだったと思いますよ。当時のうちには抑えピッチャーがいなくて、臣吾が浮き上がって落ちるシンカーをマスターしたのもこの頃。それがクローザー転向のきっかけだったと思います。

3 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る