渡辺久信は根本陸夫の誘いを断り、野村克也のヤクルト入りを決断した

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第26回
証言者・渡辺久信(3)

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 想定外の出来事だった。プロ14年目、1997年のシーズンオフ、渡辺久信は西武から戦力外を通告された。11月下旬であり、時期的にも現役続行の道は狭まっている状況。「もう自分を獲得するような球団はないのでは......」とあきらめかけた時だった。ダイエー(現・ソフトバンク)球団専務の根本陸夫から電話が入った。

 実質GM として西武黄金期を築いた手腕を買われ、根本は92年オフにダイエーに移籍。西武時代と同様に自ら監督を務めたあと、フロントに入ってチーム強化に乗り出す。秋山幸二、工藤公康、石毛宏典と、西武の中心選手を獲得する戦力補強が当初は注目を浴びた。渡辺への電話も、ダイエー入りを打診するものだった。

2019年に西武のGMに就任した渡辺久信氏2019年に西武のGMに就任した渡辺久信氏 現在、西武のGMを務める渡辺にとって、先達である根本が目標だという。しかし現役だった当時は、誰よりも強烈に印象に残る人ではあったが、あえて距離を置いていた。なにかと意識はしていたものの、立場の違いもあって、近くて遠い存在だった。その距離が、一気に縮まる可能性が出てきたなか、打診をどう受け止めたのか。渡辺に聞く。

「根本さんがダイエーに行かれたあと、当然、なかなか連絡もできない状態でした。それが、クビになった時に『西のほうに来る気はないか』とお電話をいただきました。西武をクビになったのかということで、それはもういろんな話をしましたね」

 根本が監督として招聘した王貞治の下でプレーする。可能性はゼロではなかった。だが、渡辺は14年間で通算124勝の実績を持つ投手。11月下旬にもかかわらず、興味を示す球団はダイエー以外にも出てきた。そして、いくつかの選択肢があるなかで選んだのが、野村克也が率いるヤクルトだった。

「当時の野村さんが"再生工場"とか、"ID野球"とか、話題になっていたところもありまして。ただ、その時はなにより、東京、関東の球団というのが大きかったんです。私自身、関東が長かったですし、親のこと、家族のことを考えて......。それに、自分はもうこの先、長く野球はやれないだろうという考えもありました」

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