「清原和博クラスの選手になれた」八重樫幸雄が惜しむ長嶋一茂の才能【2020年度人気記事】 (2ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

【遠慮なく言える指導者が周りにいなかった】

――それでも、1988(昭和63)年のルーキーイヤーではオープン戦で3割を打ったし、4月には巨人のビル・ガリクソンからプロ初安打をホームランで飾りました。上々のスタートダッシュだったと記憶していますが?

八重樫 ガリクソンからのホームランはたまたまだよ(キッパリ)。甘いボールを思い切り振ったら、バットに当たっただけ。でも、バックスクリーンまで飛ばすんだから、パワーと飛距離は本当にすごかったよね。指導者の言うことを聞かずに、ずっと自己流を貫いていたから、せっかくの才能も生かすことができなかった。結局、1年目がいちばん試合に出ているんじゃないの?

――そうですね。1年目が88試合でキャリアハイ。ヒット数は1988年が38安打、1989年が39安打で自己最多。以降は少しずつ減っています。

八重樫 当時の関根(潤三)監督がお父さんの長嶋茂雄さんと仲が良かったから、「何とか大成させよう」と大切に育てたけど、結果的にうまくいかなかったよね。のびのび自由にやらせるんじゃなくて、周りにもっと厳しく遠慮なく言える指導者がいたら、結果もまた違ったんじゃないかな?

――1989年限りで関根監督が退任。一茂さんのプロ3年目となる1990年からは野村克也監督が就任します。両者の関係性はどうだったんでしょうか?

八重樫 あんまりよくなったと思うよ(笑)。野村さんの中にも、「一茂を一人前にしたい」という思いはあったと思います。でも、一茂は自由奔放なところがあるから、野村さんとは性格的にも合わなかった部分もあったんじゃないかと。テスト生あがりの野村さんと、小さい頃から何不自由なく育てられて、ドラフト1位で華々しく入団してきた一茂。すべてが正反対でしたからね。何しろ、ユマキャンプでも「野村ミーティング」を全然聞いていなかったから、野村さんもよく思っていなかったんじゃないかなぁ。

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