2021.04.28

広岡監督は優秀だが人間性は…。山崎裕之はヘルメットをブン投げた

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「根本さんは私にとって6人目の監督でしたけど、今まで巡り会ってないような方で......。とにかく思い切って行けという"のびのび野球"で、ミーティングもない。これじゃあ勝てないだろうな、と思ってました。まあ、根本さんの場合は勝つということより、編成として選手を集めてきたり、地下へ潜って仕事したりするほうが得意な方でしたからね」

 当時、西武で同僚だった野村克也によれば、無死二塁で難しい内角球を右方向へ打った山崎さんに対し、「ウチは細工はしない。ドカンと打て」と根本が言ったという。

「でも、個人競技じゃないですからね、野球は。団体競技でどうやって点をもぎ取っていくか、というところでは、やはり、チームバッティングをしなきゃいけないときがある。その点、根本さんは『自分たちのサインを作ってやってくれ』と言って、なかなかそれも楽しかったですけど、本当は監督が勝つためにサインを出さなきゃいけない」

 西武に移籍して3年目のオフの契約更改。同席した球団代表の坂井保之はロッテ時代もフロントの一員で、本音の話ができる人間だった。そこで山崎さんが「僕たちは勝てる野球をやりたいのです。このままでは勝てません」と坂井に訴えたことが、結果的に大きなきっかけになった。

「勝てる野球をやりたい」という言葉を、坂井はそのまま根本に伝えた。すると、うれしそうな顔でこう返したという。

「選手が勝ちたいと言ってるのか。いいじゃないか。いい頃合いが来たんだから、勝てる監督に席を譲ることにしようじゃないか」

 1981年オフ、根本は「勝てる監督」として広岡を招聘。山崎さんとすれば、ついに憧れの人と一緒に野球をやることになった。「勝てる野球をやりたい」と訴えたのも、上尾出身の選手として、所沢は少し離れているけれど同じ埼玉の球団で骨を埋めようと、もうひと頑張りする気持ちがあったからという。