埼玉の県立校から「史上最高額」で入団。ドラフト制の契機になった男 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 つまり、ドラフトによって自由競争がなくなれば球団の財政は正常化に向かい、財力のある一部球団に有望選手が集中することもなくなる。そうしてゆくゆくは12球団の戦力均等化が実現し、球界全体の繁栄につながる──と考えられていた。

 文献資料をよく読めば、決して山崎さんの契約金だけがドラフト導入の理由ではないとわかる。しかし、関連記事を見るとまず〈山崎裕之〉と出ていて特別感がある。しかも山崎さんの紹介記事には必ず「長嶋二世」というキャッチフレーズが付く。巨人のスーパースター・長嶋茂雄を彷彿とさせる選手だったから大いに期待され、それだけの金額になったのか。

 ただ、山崎さんといえば巧打・好守の職人タイプで、"いぶし銀"のごとく寡黙に渋い光を放ち続けた選手と評されている。僕の記憶に残る山崎さんのプレースタイルも、攻守に派手だった長嶋とはまったく違うものだが、なぜ「二世」だったのか。〈5000万円選手〉の真相を知りたくて、取材を申し込んだ。

 地下鉄3路線が乗り入れる九段下の駅から程近いホテルで、山崎さんと待ち合わせた。約束の午後3時ちょうど、1階のカフェに到着したその姿は至ってスマートで、短く刈られた髪の白さを除けば高齢と感じさせるものがない。白地に水玉のような柄の入った半袖シャツが、8月も終わり間近の猛暑のなかで涼しげだった。

 東京─ロッテ、西武で20年間プレーした山崎さんは、1963年、上尾高2年生のときに投手兼遊撃手として春のセンバツ大会に出場。甲子園に出たことは各球団の高評価につながり、翌64年7月にはスポーツ紙の一面に〈高校生に5千万円〉という見出しが躍った。

 この紙面にはほかに投手の池永正明(下関商→西鉄)、外野手の菱川章(倉敷工高→中日)といった名前も出ているのだが、山崎さんの写真が最も大きくて目立ち、やはり特別感がある。金額も含めたこの評価の高さを、ご本人はどう受け止めていたのか。

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