埼玉の県立校から「史上最高額」で入団。ドラフト制の契機になった男

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第17回 山崎裕之・前編 (第1回から読む>>)


 懐かしくもあり、貴重でもある「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。第17回は、通算2081安打を放った強打と、堅実なセカンド守備でリーグを代表する内野手だった山崎裕之さんの言葉に耳を傾けてみたい。

 ファンには"いぶし銀""渋い職人タイプ"という印象が強い山崎さんだが、意外なことにプロ入り時は"長嶋二世"と呼ばれ、史上最高額といわれた契約金がメディアで騒がれるほどの存在だった。20年の長きにわたった現役生活で、スター候補生はどのように自らのプレースタイルを変化させていったのだろうか。

東京オリオンズに入団が決まった高校3年時の山崎さん(写真=産経ビジュアル)東京オリオンズに入団が決まった高校3年時の山崎さん(写真=産経ビジュアル)

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 山崎裕之さんに会いに行ったのは2016年8月。きっかけはドラフト制度の変遷を調べたときのことで、制度の原点を説く文献資料に必ずその名が出てくる。すなわち、山崎さんがドラフト導入の一因になっていたのだが、それだけの存在にあらためて興味を持った。

 ドラフト以前、1964年まで、新人選手獲得は自由競争だった。有望な選手には高額の契約金に土地や家まで提供されたため、次第に各球団の財政が悪化し、社会問題化していた。そのなかで64年11月、埼玉・上尾高のショートで強打者だった山崎さんが、"史上最高額"といわれた契約金5000万円で東京オリオンズ(現・ロッテ)に入団する。

 選手の年俸が最高で1000万円という時代の5000万円。その金額は周囲を驚かせて話題になり、山崎さんを〈5000万円選手〉と称するマスコミもあった。ほかに、慶応大から南海(現・ソフトバンク)に入団した投手の渡辺泰輔(たいすけ)も契約金5000万円といわれ、それだけの高騰が翌65年からのドラフト制度導入を推進させたといわれたのだ。

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