2021.04.05

渡辺久信は退寮を求めて根本陸夫に直談判。「正攻法ではダメ」と強行策に出た

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

 結果、私生活で自由を得た渡辺は、そのぶん、チームではエースとしての責任を果たしていく。5年目の88年は15勝を挙げて二度目の最多勝に輝くと、89年も15勝を挙げ、90年は18勝で三度目の最多勝。監督の森祇晶の下、ライオンズが黄金期を築いていく上で不可欠の存在となった。

 しかし、チームがリーグ5連覇を達成した94年は9勝を挙げるも、監督が東尾修に代わった95年は不調。先発からリリーフに回っても結果を出せず、二軍暮らしが多くなった。96年は開幕からローテーションに入ると、6月11日のオリックス戦でノーヒット・ノーランを達成。これ以上ない形で復活の兆しを見せたが、その後は不振に陥り降格する。

 翌97年、プロ14年目、32歳になるシーズン。「直球が通用するうちに、ピッチングの組み立てを変えろ」と東尾に助言された渡辺だったが、力で押す全盛期のスタイルからなかなか脱却できなかった。12試合の登板で自身初の未勝利に終わり、球団から戦力外通告を受けた。ただ、同年の日本シリーズでは登板していたし、時期的にも想定外だった。

「11月の下旬、オフになりそうな時に急にクビになったんです。球団からは『ほかでやるなら自由契約にします』と。でも、"ほか"といっても他球団の秋季キャンプはほとんど終わっていて、入団テストを受けられるような状況ではなかったんです」

 11月22日、ドラフト会議の翌日のことだった。同年の西武は7人を指名し、すべて投手だったから、渡辺の心境は複雑だった。また、当時は現在のように戦力外を通告する期間も定められておらず、まだ12球団合同トライアウトも実施されていなかった。

 現実問題として、現役続行は厳しいかもしれない。自分を獲得するような球団はどこもないんじゃないか......。そう思ったとき、5年前にダイエー(現・ソフトバンク)に移り、球団専務になっていた根本から電話がかかってきた。

「ナベ、西のほうに来る気はあるか?」

つづく

(=敬称略)

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