八重樫幸雄「コンニャロー、新人のくせに」。会田照夫の第一印象は最悪だった (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

【マウンド上に崩れ落ちる姿に真剣さを見た】

――会田さんのピッチングで印象に残っている場面はありますか?

八重樫 会田さんのプロ1年目で、僕がマスクをかぶった試合じゃないんだけど、巨人戦で札幌に行った時に、広野(功)さんにサヨナラ満塁ホームランを打たれたことがあったんです。

――調べてみると、確かに1971年5月20日、会田さんは広野さんに代打逆転満塁ホームランを打たれていますね。場所は札幌ではなく、福井での試合のようです。

八重樫 そうか、福井だったか。いずれにしても、地方球場で会田さんが広野さんに打たれたんです。この時は大矢さんがマスクをかぶっていたと思うんだけど、打たれた直後、会田さんはガクッとひざから崩れ落ちて、しばらくの間、ずっと天を見上げたまま立つことができなかったんだよね。あんなにショックを受けている姿は見たことがなかったな。

――よっぽど悔しかったんでしょうね。

八重樫 そう。本当に悔しかったんだと思いますよ。普段は飄々としているし明るい人なんだけど、あそこまで悔しがる会田さんを見たのは最初で最後でした。それまで僕は、会田さんのことを「何不自由なく過ごしてきたボンボンだから、野球は趣味のようなものなんだろう」って、勝手に思っていた。だけど、あの姿を見て「やっぱり、この人は野球が大好きで、勝負に命を懸けているんだな」ということを、あらためて知ったんです。

――プロ6年目の1976年に10勝、翌1977年に9勝と勝ち星を重ね、ヤクルト初優勝の1978年には3勝しました。でも、翌年からは未勝利に終わって、1980年限りで現役を引退しています。勝ち星に恵まれた1976、77年は何がよかったんですか?

八重樫 広岡(達朗)さんが監督だった頃が全盛期だったと思うんだけど、この頃はストライク先行で、常に投手有利のカウントで勝負していましたよね。入団当初はカーブでストライクが取れなかったのが、制球力が身についてきて勝てるようになってきたんです。シンカーは縦に落ちる軌道で、ゴロアウトが増えたし、喜怒哀楽を出さずに飄々と投げ続けて気がつけば勝っている。そういう感じでした。

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