高校で野球部をつくり、公務員からプロへ。漫画を超えた高木由一の仰天人生 (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Kyodo News

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 実家は100人程度の工員を抱える繊維工場を営んでおり、両親は仕事に忙しく、高木は放任されて育った。「ほぼ外で遊び回っていた」と勉強をほとんどしなかったため、高校進学の際には途方に暮れた。中学野球部でプレーしていたものの、周りにはスポーツ推薦で進学するような友人がおらず、「野球で高校に行く」という発想がなかった。そもそも野球選手になりたいという願望すら持っていなかったのだ。

「夢も希望もない。行くところもなくて、渕野辺高校(現・麻布大付)に拾ってもらったようなものですよ」

 高校には野球部がなかった。学校生活を送るうちに、高木のなかに「また野球がやりたい」という思いが芽生えてきた。先輩にも野球をやりたい者が数名いたため、学校に直訴して野球部をつくってもらった。この時点で高木は2年生になっていた。

「校庭の石拾いから始めましたよ。顧問の先生は野球を知らないし、練習にも来ない。全員が守備につくと、ベンチには誰も残らなくて人数はギリギリ。どんなに下手な子でも、その子がいないと成り立たないんだから」

 高木はエースで主砲だった。打者を打ち取ってもことごとく味方がエラーするため、守備が終わらない。「俺、もうやめた!」とマウンドを降りようとすると、バッテリーを組む捕手が「まあまあ、我慢してくれ」となだめにくる。高木は「高校野球の底辺の底辺、最下層じゃないですか」と振り返る。

 公式戦に出場したのは、3年夏の一度きり。のちに横浜スタジアムが建設される場所にあった平和球場で、戸塚高校と戦った。0対5と完封負けし、高木の最初で最後の夏はあっけなく終わった。

 高木は「野球はこれで終わり」と考えていた。一方で、他校の指導者から「もったいないから、どこかで続けたほうがいい」という声も聞こえてきた。

 そんななか、高木の評判を聞いた相模原市役所の関係者から「公務員試験を受けて、ウチの野球部に入らないか?」という誘いを受けた。相模原市役所の軟式野球部が翌年から硬式野球部に移行することになり、選手を探していたのだ。

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