平野佳寿はミスターコンスタント。大学時代の練習が37歳の今につながる (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual

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 その部分では目立つ中学生となり、高校は公立の伝統校・鳥羽に進学。するとチームは2年春、3年春とセンバツ大会に出場。平野も2ケタの背番号ながらともにベンチ入りを果たし、唯一の甲子園登板となった2年春の準決勝では、この大会優勝の東海大相模(神奈川)相手に3回1/3を投げて9失点(自責点7)。甲子園デビューはほろ苦いものとなった。

 高校最後の夏も京都府大会準決勝で敗退。脚光を浴びることなく、平野の高校生活は終わった。じつは、高校時代の平野は腰痛など体の不調を抱えた時期が長く、これがコンディションへの意識が高まるきっかけとなった。

 さらに、高校卒業後に進んだ京都産業大の野球部もコンディションを重視するチームで、ここから平野の素質が一気に開花した。当時、京都産業大の勝村法彦監督はコンディション重視の指導について、こんな話をしていた。

「大学に進んできた選手は高校まで一生懸命野球に取り組んできたあまり、体のバランスを崩したり、筋肉が硬くなってしまったりするケースが多い。そこを本来の形に整えてあげるだけで、投げるボールやスイングスピードが違ってくる。プレーのレベルを上げるためにも、体を整えることが大事なんです」

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 当時、選手たちはトレーナーの指導に従い、1〜2週間に1回の割合で各部位の簡単な動作確認を行なっていた。複数人で柔軟度をチェックし、普段より筋肉が硬くなっているとわかれば、体をほぐす。確認、対処の習慣づけを行なうことで、故障防止はもちろん、プレーのレベルアップにつなげていた。

 こうした地道な取り組みの成果もあって体が整うと、加えて投球フォームの修正にも着手した。

 入部当時の平野の投球フォームには、踏み出した左足のヒザの割れと、投げにいく時に腰が落ちるという2つの欠点があった。ただ、直接そこに手を加える事はせず、体全体のバランスを整えることで欠点が自然と修正され、4年時には勝村監督が「教科書に載せたい」という理想の投球フォームが完成した。

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