パ・リーグDH誕生秘話。それは世界一の代打男の執念と技術から始まった (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

 高井のプロ入りは1964年。愛媛の今治西高から社会人の名古屋日産を経て入団した。まだドラフト導入前、「弱くて選手の層も薄いからすぐ試合に出られるはず」と見込んで阪急を選んだが、外国人選手に出番を奪われて2年間は二軍暮らし。それでも高井は奪われるままにせず、メジャー通算105本塁打の助っ人、ダリル・スペンサーに倣って生きる道を見出すことになる。

「ワシが初めて一軍に上がった昭和41年、スペンサーが打って帰ってくるたんびに、小さいノートになんか書きよるのを見た。通訳に聞いたら『相手ピッチャーのクセを書いとる』と言う。へぇ~、そんな勉強の仕方もあるんかないな、ということで、自分でも始めたんや」

 もっとも、スペンサーに影響を受けたのは高井だけでなく、同じ外野手の長池徳二(現・徳士)もクセを盗んではメモしていた。するとその長池が先に頭角を現し、入団2年目の67年には4番に定着。一軍はさらに狭き門となり、クセを盗むこともできない。二軍の投手はクセ盗みなしに打てたが、当時の西本幸雄監督には「高井は変化球が打てんから使わん」という方針があったという。

「ファームの時、ワシは5年間で首位打者、本塁打王、打点王のタイトルを獲ったわけ。ホームランも全部で71本。それでも西本さんは使うてくれんかったんや」

 要は「干されていた」高井だが、一軍に呼ばれた時に可能な限りクセを見に行ったことが実を結び、入団6年目の70年には66打数で5本塁打(代打で3本)。この頃には西本も高井を戦力として見るようになっていて、スタメン出場が増えた72年は一気に15本塁打(代打で5本)とブレイクする。翌73年は再び出番が減ったものの8本塁打(代打で1本)を放ち、打率は初めて2割8分を超えた。

「それで『もう一回やったろう!』という気持ちになった。メモしといたクセもバッティングに生きるようになったしね」

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