秋山、伊東、工藤を獲得したドラフト戦略は「裏工作」と揶揄された

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

無料会員限定記事

根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第22回
証言者・浦田直治(4)

前回の記事はこちら>>

 1980年のシーズンオフ、投手コーチ兼任からスカウト専任になった浦田直治。西鉄時代から10年の経験があり、その実績は当時の西武スカウト陣のなかでも飛び抜けていた。球団が太平洋になって以降、ドラフト外も含めて獲り逃した選手はいなかった。

 クラウンでチーフスカウトになった78年、根本陸夫が監督に就任する。浦田にとっては旧知の間柄だったが、近鉄時代にスカウト経験もある根本は"球界の寝業師"と称された男。それでも、新人補強では全幅の信頼を置かれ、のちに「根本の右腕」と呼ばれることになる。

西武黄金時代を支えた(写真左から)秋山幸二、伊東勤、工藤公康西武黄金時代を支えた(写真左から)秋山幸二、伊東勤、工藤公康 それだけの存在だった浦田は、担当スカウトに替わって動くことがよくあった。どうしても獲りたい有望選手がプロ入りを拒んだり、入団交渉が難航した場合に長年の経験と実績を生かす。西武での最たる例が、熊本の有望な高校生、八代高の4番兼エースの秋山幸二と、熊本工高の主砲で正捕手の伊東勤を獲得したことだった。浦田にそのスカウト術を聞く。

「まず秋山は進学希望が強いと聞いていたので、調べてみたら、東京の名門大学を目指しているとわかりました。でも、学業の成績を見たら入学は難しい。そこで本人側に『九州産業大学への進学を考えてみませんか?』と伝えたんです」

 浦田は他球団よりも早く本人側と接触し、本人の希望を聞いていた。九州産業大を紹介したのは浦田自身、同大野球部と接点があり、秋山が4年間、大学で野球を続けた後に指名してもいいと考えたからだった。どうしても大学に行きたかった秋山は、ドラフト前、進学予定を公言した。
 
 この「進学予定」を、周りは真に受けなかった。まだプロ志望届もなく、ドラフト外での入団が認められていた時代。他球団にドラフト指名をあきらめさせるための"裏技"として、「進学予定」を仕掛けるケースが多かったからだ。とくに西武は、同じグループの社会人チームであるプリンスホテルを利用した裏技を疑われていた。

1 / 6

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る