2021.01.13

カープ寮に父と入居。安仁屋宗八が振り返る
「沖縄の星」としての歩み

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「当時、沖縄いうのはパスポートが要りましたよね。あの時代、パスポート持っとる人が少なくて、スカウトの人もほとんど持ってなかったんじゃないですかね。それがたまたま、広島の場合、平山智(さとし)さんいう人が日系二世で、パスポートを持ってたんですよ」

 戦後の沖縄は72年の返還まで米軍統治下にあり、日本ではなく「外国」だった。他球団も安仁屋さんに注目するなか、広島には先を越せるだけの人材がいたのだ。もっとも、平山智は本職のスカウトではなく現役の外野手だったから、球団がいかに安仁屋さんを必要としていたか、うかがい知れる。きっかけは63年、都市対抗野球大会での好投だったという。

「僕は大会では大分鉄道管理局に補強されたんですね。琉球煙草から。そのとき、キャッチャーの人にシュートを教えてもらったんです。『お前の投げ方、スリークォーターだから、ちょっとこうして、シュート投げてみんかあ?』言われて」

 目の前でゆっくりと、右腕が振り下ろされる。掌(てのひら)をこちらに向けて、ひねりが加えられた。このシュートは安仁屋さんにとって、最大の武器となったボールだった。

「都市対抗でこのシュートを投げて、4本ぐらいバット折ったですかね。これがプロの、スカウトの目に留まったと思うんですよね」

シュートの手首のひねりを実演する取材時の安仁屋さんシュートの手首のひねりを実演する取材時の安仁屋さん

 プロ入りのみならず都市対抗出場も、沖縄の選手では安仁屋さんが初だった。当時の沖縄では「職域野球」と呼ばれた社会人野球が盛んだったが、南九州予選での敗退が続いていた。本土との野球交流が少ない上に、60年に奥武山(おうのやま)球場ができるまで本格的な野球場がなかったこともレベルの差につながっていた、と安仁屋さんは言う。