カープ寮に父と入居。安仁屋宗八が振り返る「沖縄の星」としての歩み (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 翌76年も10勝10セーブを挙げた安仁屋さんだったが、登板数が激減した79年のオフに引退を勧告される。それでも、その後に金銭トレードで古巣復帰が決まり、80年からの2年間をカープで過ごして現役を全うした。

 いったんチームを離れ、再び戻った安仁屋さん。もしかしたら、カープひと筋の選手以上にホームグラウンドへの愛着が強いのでは? そう思い立って広島行きを決めた後、広島市民球場で〈カープOBオールスターゲーム〉が開催されることを知った。

 開催を伝える記事には、〈先発は安仁屋宗八氏と外木場義郎氏〉と記されていた。OB戦とはいえ、市民球場のマウンドで投げる安仁屋さんの姿を見られるとはうれしい。僕は06年に外木場(そとこば)さんにも取材していたので、二重、三重のうれしさだった。

 OB戦の開催は12月6日。1ヵ月後を楽しみにしつつ、広島駅に直結するホテルのラウンジで朝10時、安仁屋さんと待ち合わせた。グレーのジャケットの下は黒い細身のズボンで足取りは軽く、想像以上に引き締まった体型は若々しい。

 濛々(もうもう)とした髭と頭髪の白さには64歳(当時)という年齢を感じるものの、三日月型の眉は黒く太く、現役時代の写真で見た印象と変わらない。広い瞼(まぶた)の下の目は真ん丸で大きいが、威圧されるような眼差しではない。僕は落ち着いた気持ちで取材の主旨を説明した。

「市民球場の思い出はたくさんありますけど、僕はもともと、広島には縁があるんです。まずは高校野球から。広島の広陵に甲子園で負けたんです。で、(プロ入りの際も)広島のスカウトの人が真っ先に沖縄に飛んで来てくれた、いうのがありますから」

 微(かす)かにしゃがれて張りがあり、湿り気もある声が、沖縄方言特有のアクセントとあいまって耳に心地よく響く。ただ、さまざまな文献資料に載っていたインタビュー記事のようなくだけた口調ではなく、丁寧語なのは意外だった。

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