想定外だった巨人へのFA移籍。前田幸長に決断させた「監督」「お金」問題 (3ページ目)

  • 中島大輔●文 text by Nakajima Daisuke
  • photo by Sankei Visual

 "球界の盟主"と言われる巨人は、さまざまな意味で特別な球団だ。前田がそうした思いを強くしたのは、1年目の春季キャンプだった。ロッテはもちろん、中日と比べても報道陣の数が圧倒的に多く、常に「見られている感」を覚えた。

「いろんな人がジャイアンツにFAで加入していますけど、ダメだった時には、まあまあ厳しく書かれているじゃないですか。その心の準備は当然していました。だからこそ、やらなきゃいかんと」

 球団、そしてメディアの立場から見た時、中継ぎ左腕の前田に求められるノルマは1年間フル回転することだ。それ以上でも、以下でもない。

 そう目標設定して臨んだ巨人1年目の2002年、前田はキャリア最多の53試合に登板。4勝4敗1セーブ、防御率2.74という成績を残し、自身初の日本シリーズ優勝にも貢献した。

「移籍1年目の数字は、メディアも現場もフロントも僕も『なんとかよかったね』という合格点だったと思います。ジャイアンツに移籍してきたプレッシャーを感じながら、1年間投げることができました」

 32歳になった翌年、投手としてピークを迎えた。50試合で5勝2敗3セーブ、防御率3.15という成績以上に、球の質、制球、球威など、ほぼすべて自分が思うように投げられた。

 とりわけ前年までと比べて変わったのが、捕手のサインに首を振って投げる球だ。通常、首を横に振ったら変化球というケースが多い。だがこの年、前田は首を振って真っすぐを投げ込むことができた。

「首を振って真っすぐを投げられたのは、若くて技術がない時と、それを身につけた32歳の時です。しかも、真っすぐを低めにコントロールできた。横のコントロールは簡単なんです。高低のコントロールは難しい。手先だけで低めに投げると力が伝わりません。力が伝わる低めのボールというのは、こういうふうに投げると思うように行くよねと感じていました。その時は、やっぱり面白かったですね」

 2004年も好成績を残し、翌年の前半戦も安定感ある投球を続けた。歯車が狂い始めたのは、2005年の交流戦で楽天の山﨑武司に真ん中外寄り低めの速球をホームランにされてからだ。この一発を境に、「歯止めが効かなくなった」。

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