2020.12.25

「ロッテの野球をやってんじゃねえ」。
前田幸長の選手寿命を延ばした言葉

  • 中島大輔●文 text by Nakajima Daisuke
  • photo by Sankei Visual

 それでも、前田にとって一筋の光明が差し込んだシーズンだった。25試合のうち7試合で登板したリリーフの際、先発とは異なる感覚が見つかったのだ。

「自分の性格上、中5、6日で徐々に来る緊張感があまり合わなかったんです。逆にブルペンでビーって電話が鳴って、『前田、行くぞ』と言われて肩をつくる。次にビーって電話がなったら、だいたい『俺だろうな』とわかる。そうやってギュッとしてマウンドに行く緊張感が自分の力になりましたね。だから、『リリーフにしてほしい』と球団に伝えました」

 プロ野球の世界には、いわゆる職人肌の選手が少なくない。己の腕を買われて契約を結んでいる彼らは、守備位置や打順について自身の希望を封印し、首脳陣に命じられた持ち場で黙々と仕事をこなしていく。前田のように、起用法やトレードを願い出る選手は少数派だ。

 前田はもともと探究心の強い性格で、キャリア形成に主体的だった。そうした"個人事業主"的な姿勢が、野球人生を切り開いた。

 中継ぎに回った1998年には36試合に登板して4勝2敗、防御率2.34。緊張感を持続させながら、安定した投球を1シーズン続けた。

 翌年以降は主に中継ぎで投げながら、ときに先発でも起用された。"便利屋"は首脳陣にとってありがたいコマだが、当人は心身のタフネスを求められる。前田はそんな役回りをこなした1999年、自身初のリーグ優勝に貢献し、日本シリーズ(対福岡ダイエーホークス)でも登板。自身の価値を高めたこの年、FAの権利を手にした。

 高卒11年目の29歳、投手としてちょうど脂が乗ってきた頃だ。だが、この時は中日を出ようという考えはなかった。

 "暗黒時代"のロッテから中日に移籍し、あらゆる面で満足していた。名古屋には「おらが街」という独特な文化や誇りがあり、熱心なファンが自分を大事にしてくれる。何より中日が好きで、星野という恩人がいた。星野と出会ったおかげで、前田は野球人生の寿命が7、8年伸びたと思っている。

 それが31歳になってFA権を行使したのは、自身を取り巻く環境が変化し始めたからだった。