中日移籍後0勝で開幕投手に。川崎憲次郎「かすかな希望を抱いていた」 (2ページ目)

  • 中島大輔●文 text by Nakajima Daisuke
  • photo by Sankei Visual

 病院を回っても、原因はわからない。「手術しますか?」と医師に聞かれたが、痛みの理由さえ判明していないのに、メスを入れてどうなるのだろうか。ダメ元でやってみることも考えたが、術後の復帰までに時間がかかり、そのまま野球人生が終わってしまう可能性が高い。「自分でとりあえずやります」と答え、何とか模索してみることにした。

 痛みがなくなることは、もう2度とないかもしれない。それでも、投げられればいい。さまざまな場所へ治療に出かけ、お参りにも行った。藁(わら)にもすがる思いだった。

「ピッチャーがボールを投げられないって、あり得ないじゃないですか。俺、投げるの大好きですし。できれば、ケガするのも覚悟で投げたいピッチャーなので。投げたいのに3、4年も投げられないのは、それはしんどいですよ」

 川崎がリハビリに明け暮れる一方、二軍の試合では若手が打ち込まれ、首脳陣に叱咤されていた。ファームで日常的な光景が、川崎には染みわたった。

「若手は打たれてもまだ先があるじゃないですか。俺は先がないですからね。あれだけ肩が飛んじゃったら。そういう時に思いました。こいつら、いいなって。怒られて、幸せだなって」

 朝起きたら、痛みが消えてなくなっていないだろうか。魔法のようなことを願ったが、現実に起きるわけがなかった。

 痛くても投げられる方法を探し、140キロくらい出るようになった。だが、以前のようなキレがない。投げる球にはムラもある。ファームでは登板できるようになったが、一軍に戻るメドはまるで立たない。

 もう、ダメかもしれない----。

 中日に移籍して3年目の2003年、川崎の心身はボロボロになっていた。

 世間を騒がす出来事に巻き込まれたのは、そんな折だった。2003年オールスターゲームのファン投票で、悪意ある者がインターネットで組織票を投じ、3年間で一軍未登板の川崎が1位に選ばれたのだ。「川崎祭」と言われ、ワイドショーや週刊誌の記者が押しかけた。

「出る権利のない選手だから、もちろん辞退します。だけど、そうやって名前が挙がること自体、俺は悪く思いません」

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