無名でも実力ある選手を獲りにいく。「根本陸夫の右腕」が貫いた信念 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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「なかには関係ない書類もあって、『査定のとこだけでいいんです』と言ったら、『いやいい。全部持ってけ』って。ちゃんと球団の上のほうに話を通してくれてたんですね。おかげさまで、西鉄も同じように査定をし始めたんですが、それがずっと伝わって、今も西武はそれを使っていると思います。査定の方法って、そんなに新しく考えたりできないものですから」
 
 ライオンズの本拠地が福岡から所沢に移転してからしばらく、前身球団である西鉄と西武の関係はファンには見えづらかった。そのなかでも浦田が明かすとおり、球団内部においては、西鉄から西武に継承されたものもあったのだ。

 だが2008年、西武が球団史を振り返るイベントを開催するまで、西鉄とのつながりは断たれていたも同然だった。球界を襲った八百長騒ぎの"黒い霧"事件が1969年の西鉄に端を発していたため、球団オーナーの堤義明がその汚(けが)れたイメージを嫌ったのだ。

 事件当時、影響を受けて西鉄球団は弱体化し、浦田の人生も変わることになる。70年、八百長に絡んだとされる6選手が出場できなくなり、戦力ダウンした西鉄は4月末から最下位に低迷。同年の浦田は先乗りスコアラーになっていたが、どれだけ相手のデータを集めて分析したところでチーム浮上の見通しが立たない。夏場になった頃、監督の稲尾和久に相談した。

「稲尾にね、『もう先乗りいらんやろ?』と言ったら、『そうやなあ......』と。それで球団に理由言って『辞めます』と伝えたら、すぐスカウト部長から電話がかかってきて『手伝ってくれ』と。夏からスカウトを手伝ったんです」

 翌71年、正式にスカウト部の一員になると、球団専務から部署全員に「12球団の練習を見て来い」と指令が飛んだ。手分けしてキャンプを視察することになった。

「僕は南海と広島を見に行くことになりました。広島は根本さんがいますからね。で、宮崎の日南まで行ったら、『おまえ、オレんとこへ一緒に泊まれ』って(笑)。『いや、いいですよ、自分でホテル取ってますから』って言ったんですが、本当にいつも歓待ぶりがすごかったんですよ」

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