無名でも実力ある選手を獲りにいく。「根本陸夫の右腕」が貫いた信念

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第20回
証言者・浦田直治(2)

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 西武のスカウト部長として新人補強に尽力し、「根本陸夫の右腕」と呼ばれた男がいる。西鉄での現役時代は控え捕手だったが、引退後、スカウトとして手腕を発揮した浦田直治。球団が太平洋クラブ、クラウンライターと変遷したなかでもライオンズを陰で支え、西武では球団管理部長=実質GMの根本に絶大な信頼を置かれた。

 縁あって、浦田が根本と出会ったのは中学時代。1950年、根本が法政大でプレーしていた時のことだ。それから7年後、今度はお互いプロの選手として再会。そして次に会ったのは69年。浦田は西鉄のバッテリーコーチ兼スコアラー、根本は広島の監督になっていた。面会の経緯を浦田に聞く。

1968年から72年シーズン途中まで広島の監督を務めた根本陸夫1968年から72年シーズン途中まで広島の監督を務めた根本陸夫「僕は当時、コーチとスコアラーと、契約更改の時の査定も担当していました。ある日、球団の上の人が『広島は大リーグの査定システムを採り入れているらしい。誰か、広島で知ってる人がいたら聞いてもらえないか』って言う。それで僕が『広島なら根本さん、知ってますよ』と。『え? おまえ、根本さん知ってるの?』となって会いに行くことになったんです」

 当時、広島のオーナーだった松田恒次の長男、松田耕平がオーナー代理を務めていた。耕平はアメリカ式の球団経営をよく研究しており、監督とGMとの権限を分けた運営をすべき、という点で根本と意見が一致していた。査定システムの導入も研究の一環だったと思われる。その日、浦田が広島市民球場内の球団事務所を訪ねると、根本が待っていた。

「朝早くに行ったら、あれはオープン戦だったか、呉でゲームがあるってことでバスが停まってて。『おまえ、一緒に乗ってけ。ゲーム一緒に見ろ。ここに座れ』って言われて、根本さんの横に座らされて。呉まで連れて行かれて......。査定の書類の話なんてひと言も出ないんです(笑)」

 広島市に隣接する呉市とはいえ、バスに揺られて1時間強。想定外の"遠征"に浦田は辟易しかけたが、初対面から尊敬の念を抱く先輩にお願いする立場なのだから何事も従うしかない。それでも試合が終わって戻るとすぐ、根本が無言で書類を持ってきた。

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