球界で光った個性派のメガネ戦士たち。「大成しない」のジンクスを打ち破る (2ページ目)

  • 白鳥純一●取材・文 text by Shiratori Junichi
  • photo by Sankei Visual

 古田が入団する前、ヤクルトで正捕手を務めていた八重樫幸雄も、個性的なフォームとメガネ姿で活躍した選手だ。

 プロ入り後、やはり乱視の悪化がきっかけでメガネを着用するようになったが、当初はメガネのフレームによって視界が遮られ、対戦投手のボールが見えずに苦しんだという。しかし1983年から、ヤクルトのヘッドコーチ兼打撃コーチに就任した中西太とフォーム改造に着手。八重樫の代名詞でもある、投手の正面を向く"オープンスタンス"が誕生した。

 さらに、メガネを着用しながらプレーしやすいよう、従来よりも膨らみの大きなキャッチャーマスクも作られた。のちに古田もそれを使用して正捕手としてチームを支え、代打の切り札として活躍した八重樫と共に1992年、1993年に球団初のリーグ連覇を達成。日本一(1993年)にも輝いた。

 その2人以外にも、"赤鬼"ことボブ・ホーナー、いぶし銀の活躍を見せた土橋勝征、中継ぎで奮闘した金沢次男など、1980年代中盤から90年代にかけてのヤクルトは、多くのメガネ選手が在籍していた。

 ヤクルトが14年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした1992年。終盤までヤクルトと優勝を争った阪神を牽引していた亀山努も、メガネ姿でのハッスルプレーが印象に残る選手だ。

 1990年、1991年にウエスタン・リーグで2年連続首位打者を獲得した亀山は、1992年からメガネをかけてプレーするようになった。それでボールが見やすくなったという亀山は右翼手のレギュラーを掴み、ゴールデングラブも獲得。一塁へのヘッドスライディングが代名詞となり、新庄剛志と"亀新フィーバー"を巻き起こすなど、それまでの5シーズンで最下位が4回と低迷していた阪神の2位躍進に貢献した。

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