藤川球児が書いた「夢」の落書き。恩師ふたりが語る中高時代のエピソード (2ページ目)

  • 寺下友徳●取材・文 text by Terashita Tomonori
  • Photo by Terashita Tomonori

ーーそして正木監督が後を引き継ぐ形になったわけですね。 

正木陽氏(以下、正木)
 そうですね。球児については(上田)修身からも事前に「いい投手」とは聞いていたんですが、確かに入学時からいい投げ方をしていたし、手足も長くて肩の可動範囲がすごく広かった。僕はすぐにプロにいけると思いました。ただし、球速は当時125キロくらい。だから最初は外野に入れて、体重移動で体全体の力で投げることを身につけさせました。

 もうひとつ力を入れたのはフォームづくり。タオルを使ってのシャドウピッチングで5分くらいの力でやらせていました。彼のすばらしいところはどんなにフォームが乱れてもシャドウピッチングをしたら修正できるんです。肘の高さや身体の向きもシャドウピッチングをすれば直っていましたね。

 2年春になると球速が140キロを超えて、夏前にはストレートが相手打者に当てられなくなった。高知大会前に鳴門(徳島)と練習試合をした時に1安打20奪三振で完封。これが、高知の土居龍太郎(法政大を経て横浜ベイスターズ自由獲得枠)、明徳義塾の寺本四郎(千葉ロッテマリーンズドラフト4位)、高橋一正(ヤクルトスワローズドラフト6位)といった2年生の同級生を抑えて甲子園にいける原動力になりました。

【帽子のつばの裏に書いていた「弱気は最大の敵」】

ーー藤川投手といえば、随所にストイックなイメージがありますが、中学・高校時代はどうだったんですか? 

上田
 野球にガツガツした感じはなかったです。呑気な雰囲気もありました。中学時代の最後の大会も試合の2日前くらいから調整で練習量を落としたんですが、余った時間で皆で川に泳ぎに行ったりしていたみたいです。

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