アキレス腱断裂で「一発必中の精神」へ。門田博光は鳥肌を立てて打席で集中した (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual

 ある時、門田の打撃を本人の解説付きで見させてくれないかとお願いしたところ、まもなく実現。門田が持参したDVDの映像はビデオからダビングされたもので一部乱れていたが、見始めると思い出の詰まった1本1本を雄弁に語った。

「見てみ、腰がよう回っとるやろ。今の選手でここまで回るヤツは誰がおる? ほとんど回りきる前に終わっとるやろ」

「渡辺久信のフォークや。ワンバウンドしそうな球を西武球場の奥まで持っていってな。(渡辺は)『あのボールをあそこまで飛ばしますか』って顔しとるやろ」

「オレのフォームは当たる一瞬だけがキレイで、あとはグチャグチャ。これもそうや。重いバットをとにかくガツンとぶつけて、その一瞬でボールに力を伝えて飛ばす。手本になる打ち方やなかったけど、オレはこれやないとアメリカの戦車(外国人選手)と戦えんかったんや」

 時に当時の心境も交えながら、贅沢な時間はゆうに2時間を超えていた。映像はほとんどが80年代のもので、時期的には門田がホームランアーチストとなって以降の本塁打が大半だった。

 門田が南海ホークスで過ごした19年のうち、入団10年目の1979年を境に見ると、1978年までの9年と、1980年からの9年で成績に明確な違いがあることがわかる。

 一目瞭然なのが本塁打数だ。入団から1978年までの9年間の本塁打数は計179本で、年度順に見ると、8本、31本、14本、18本、27本、19本、22本、25本、15本となっている。

 一方、1980年から南海が身売りされる1988年までの9年間は計297本。年度順では41本、44本、19本、40本、30本、23本、25本、31本、44本。3度の本塁打王はすべて1980年以降の9年で獲得しており、本塁打が門田の代名詞となっていったのもこの頃からだ。

 そしてこの2つの9年の間にあるプロ10年目(1979年)は2本塁打に終わっている。この年、門田はアキレス腱を断裂。選手生命を左右するアクシデントに見舞われたのだった。

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