2020.09.07

根本陸夫が狙った巨人の抑えエース。
工藤公康とのトレードは幻となった

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Kyodo News

 78年のドラフト前、明治大の"二番手"として東京六大学で活躍した鹿取は、社会人の日本鋼管入社が内定していた。一時は「プリンスホテルの一期生になる話があった」というから、ひとつ間違えば、西武グループで野球を続ける可能性もあったわけだ。

 その可能性は明大監督、島岡吉郎の猛反対で消えたが、ドラフト直後、日本鋼管入りもなくなった。

 というのも、巨人が"江川問題"でドラフト会議をボイコット。社会人内定で指名がなかった鹿取を獲りに来ると、島岡が日本鋼管に断りを入れた。巨人スカウトの沢田幸夫が明大OBで、島岡とは気心が知れた間柄だった。高知の実家に帰った鹿取は家族と相談のうえ、入団を決めた。

 当時のドラフト制度では、指名枠(78年は1球団4人以内)から漏れた選手を「ドラフト外」で獲得できた。だが、ボイコットした巨人は1人も指名していないため、アマ球界からの新入団すべてが「ドラフト外」。指名枠から漏れたわけではない。にもかかわらず、入団から間もなくトレード要員になってしまうとは......。

「プロの世界、それはあるかなと思う。しかも僕の場合、あまり期待されていなかったわりに、1年目から一軍でそこそこ投げていたから。たぶん、そういう面でも出しやすい、誰とでも交換しやすい選手と見られていたんじゃないかな」

 入団5年目まで中継ぎ中心、"谷間の先発"もあった鹿取だが、84年に王貞治が監督に就任すると勝ちゲームのリリーフとしての地位を確立した。18セーブを挙げ優勝に大きく貢献した87年には、リーグ最多63試合に登板。それだけ王が交代を告げたことから「ピッチャー鹿取!」が流行語となり、酷使される状況を指して「カトラレル」という造語まで生まれた。

 翌88年も鹿取は17セーブを挙げたが、オフに王が辞任。89年は藤田元司が監督に復帰すると、先発完投を重視する藤田の投手起用方針と若手の成長もあり、鹿取の出番は減少する。

 そのなかで途中トレードの話があり、その6月、鹿取ではなく巨人は角三男(現・盈男)を日本ハムに放出。前年には西本聖が中日に移籍し、鹿取と同学年の投手ふたりがチームを去っていた。