怖いもの知らずが招いた協約違反。根本陸夫の立場は危うくなっていった (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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 野球協約違反は1990年、社会人投手の小島弘務をドラフト外で獲得した後に発覚した。

 小島は平安高(現・龍谷大平安)から駒澤大に進学後、1年半で中退して住友金属に入社。「大学中退者は大卒扱いとする」というプロ・アマの合意事項によって、社会人在籍2年でプロ入りできる。1988年2月に日本野球連盟に登録された小島が、90年に入団するのは何も問題ないはずだった。

 しかし小島は住友金属入社の際、駒大中退ではなく平安高卒で登録していた。すなわち高卒扱いとなり、社会人在籍3年が必要となる。ゆえに同年の指名禁止リストに名前があったのだが、西武はそれを承知で獲得したため非難が集中した。

 しかもパ・リーグが契約を認めていないなか、2月の高知・春野キャンプに小島を参加させたことも批判されていた。島田が振り返る。

「スカウト部長の浦田(直治)さんが二軍のキャンプにいたので、『こっちから頭を下げましょう』と提案しました。『弘務もかわいそうですよ』と。でも、浦田さんもオヤジの子分だから、『そんなの、謝ることないんだ』としか言わない。そしたら案の定、キャンプが終わって帰るとき、弘務は羽田空港で新聞記者に囲まれて、翌日の一面に『西武、協約違反』と出たわけです」

 小島は協約違反選手となり、西武との契約が無効になった。コミッショナーはパ・リーグからの申請を受け、協約違反の西武球団に制裁金50万円を科すと同時に、今後も小島と契約することを禁じた。さらに球団内でも、代表の清水信人と根本にペナルティーが科された。

 残る問題は、行き先を失った小島だった。すると根本は「小島に悪いことをした。絶対にまた、プロへ入れてやる」と、自ら小島の生活面に関する面倒を見て、自主トレの計画も立てて徹底的に援助した。

 結果、小島は1990年のドラフトで中日に1位指名されて入団できたのだが、そもそも、「こんなものはオレが通す」という根本の考えが間違いだった、と島田は言う。

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