2020.08.12

1977安打で引退のスラッガーが
「あと23」に執着しなかった真相

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki


 毒島さんの打順は当初3番が多く、張本勲が4番に定着して以降は1番が増える。それが優勝した62年に3番に戻り、65年にはおもに5番で活躍。比較的、2番が多くなったのは白仁天、張本、大杉勝男のクリーンアップが確立した68年、もう晩年だった。

「まだ元気なときに2番を打ちたかったですね。『次走れよ、オレ転がすから』って、目で合図して。そういうことをやりたかったんですよ、いつも。まぁ、とうとうそれが、念願かなわなかったんですけどね」

 苦笑とともに一瞬、がくりと頭を下げていた。2番打者になれなくてこれほど落胆する選手はいるだろうか。2番打者が「念願」だった野球人はいるだろうか。中軸でランナーを還すよりも、2番で能動的にプレーをしているのを好んだ、ということだったのか。

「そんな感じですね。ランナーを進めて楽しんでるっていうようなね。たとえば、ノーアウトでランナーがセカンドにいたら、後ろは張本がいるからドラッグバントやって、一、三塁にしようとかね。内野安打にして。たまに2番に入るときはありましたから、入ったらいっつもそんなことを考えてたですね」

 楽しげに話していると思いきや、すぐに「それができなかったのが本当に残念です」という言葉が続いた。2番でここまで悔しがっているとは......と、あらためて意外に感じたとき、ならば記録もそうなのでは? と思い当たった。残念という意味では、2000本安打まであと少しだったことも同じではなかろうか。

「あんまり、気にならなかったですねえ。2000本というものに対してね。もう肘がダメで、ライトからセカンドまでほうれないんですよ、痛くて。バッティングにも影響して、バットも引っ張れなかったですから、もう全然ダメでした。

 それでその前、松木謙治郎さんが監督になったとき、わたしはコーチ兼任だったんですが、田宮さんがバッティングコーチをやられてて、『現役だったら現役一本、コーチだったらコーチ一本でやれ』って言われて。はじめちょっと迷ったんですよ。どうしようかなと」