定岡三兄弟の長男・智秋の今。
「ノムラの教え」を胸に高知に復帰

  • 広尾晃●文 text by Hiroo Koh
  • photo by Hiroo Koh

「野村監督のもとで5年間プレーしました。野村さんからよく言われたのは、『とにかく守れるようになれ』『考える野球をしなさい』ということでした。気づいたことはノートに書きとめ、何度も繰り返し見ていました。

 野村さんは『野球は確率のスポーツやから』が口癖で、初球はどんな球がくる、このカウントだったらこの球がくるといったように、当時からデータを重視されていました。狙っていた球がこなかったときは『ごめんなさい』でいいと、割り切りも教わりました。

 守備でも、相手の打球方向のデータを取って、このケースではこう守りなさい、この打者のときはここに守りなさいといったように、とくに二遊間をはじめとしたセンターラインのポジショニングには厳しかった。でも、そうした基礎をしっかり教えてもらったおかげで15年もプロでやれたのだと思いますし、指導者になってからも野村さんから教わったことがベースになっています」

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 定岡は1975年から3年連続でオールスターに出場するなど、パ・リーグを代表する選手へと成長する。しかし、1977年のオフに野村監督は南海を追われることになり、さらに江夏豊、柏原純一が「野村監督と行動をともにする」と、ホテルに籠城する騒ぎもあった。

「何も知らなかったので、いきなり新聞に出て本当に驚きました。野村さんが監督のままだったら、もう少し長くレギュラーを務められたかもしれません」

 恩師である野村監督が南海を去ってからも、定岡は遊撃手としてプレーした。1983年には全試合出場を果たすなど、チームの顔として活躍。しかし、1984年にアキレス腱断裂の大ケガを負ってしまう。

「84年は開幕から調子がよく、4月だけで7本塁打を打つなど、一時期ホームランダービーのトップに並んだのですが......5月10日の西武戦でアキレス腱をやってしまった。それで終わってしまいましたね。87年まで現役を続けましたが、レギュラーに戻ることはできなかった」

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