今の投手も350勝できるはずや、同じ人間やからと米田哲也は言った

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第10回 米田哲也・後編 (前編から読む>>

 令和の時代に、「昭和プロ野球人」の過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ企画。プロ野球史上2位となる350勝を挙げた米田哲也さんは、なぜこれだけの数字を積み上げることができたのか。もはや200勝投手すら困難だろうといわれる現代のプロ野球に対して、ときに厳しい口調で発した言葉とは......。

1965年、阪急の高知キャンプで西本幸雄監督(左)と話し合う米田哲也(写真=共同通信)1965年、阪急の高知キャンプで西本幸雄監督(左)と話し合う米田哲也(写真=共同通信)
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 350勝投手の米田さんだが、ある資料に〈300勝までは順調で、その後の50勝が大変だった〉という自身の発言があった。小山正明と勝ち星を競い合い、320勝を超えた1973年は15勝も、74年は11勝。翌75年には阪急で2勝した後に阪神へ途中移籍してさらに8勝。かろうじて二桁勝利を挙げたが、76年は2勝。近鉄に移籍した77年も2勝に終わり、現役を引退している。

「阪神に移った時、ピッチングコーチが小山さんやったんです。ライバルだった人でよかった面はありました。登板日も『次、何日』言われたら、それに合わせて調整できましたからね。例えば、今日いい状態だからと『明日放れ』言われたら放れない。歳が40近くなるとね、1週間後ぐらいなんです。それを小山さんはわかってくれた。わからんコーチはあかんです」

 小山は75年限りで退団し、翌76年、代わって就任したのが「わからんコーチ」だった。

「それであかんようになった。『今日よかった、明日行ってくれ』ちゅうわけ。ものすごい反感持ちました。『ナニ考えてるんですか?』言うたもんね。無理やっちゅうの、はっきり言うと!」

 往時を回想しての言葉ではなく、まるで現役の選手が発している怒声のように感じられる。それぐらい反感を持っていた、ということは、もしもチームの体制が整っていたら、もう少し勝てたのではないか。極端な話、金田正一の400勝超えは......。

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