2020.05.28

巨人・炭谷銀仁朗はナイスガイ。
万全の準備と仲間への気配りを忘れない

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual

 卒業後はしばらく会う機会がながったが、1993年の秋、社会人野球(日本新薬)を終えてまもない原田が監督として平安に復帰。原田を応援しようと同級生が集まったのだが、そこに英毅さんも参加した(のちに"原田英彦を応援する会"の会長)。

 英毅さんのなかに野球への思いが再燃し、時折、京都・亀岡にあった練習グラウンドに炭谷を連れて行くこともあった。そんな流れがあっての甲子園での応援だったのだが、炭谷はすっかり野球の魅力に取りつかれてしまった。平安が準優勝した夏が終わると、炭谷は英毅さんに「野球がしたい」と直訴した。

 しかし、すぐの転向とはならず、英毅さんは「野球がしたいのなら、水泳で結果を出してからや」と条件を出した。それは翌春に予定されていたジュニアオリンピックへの出場だった。すると、炭谷はバタフライでジュニアオリンピック出場を果たし、堂々と目標をクリア。小学5年から軟式の養生(ようせい)クラブに入り、野球人生をスタートさせた。

 当初はレフトを守り、体の大きさ、肩の強さを買われ、6年の新チームからキャッチャーを任された。チームの監督が平安OBで捕手出身だったこともあり、ここでキャッチャーのイロハを叩き込まれた。

 中学になるとボーイズリーグの京都バファローズに所属し、ここでも捕手として活躍。学年が上がるごとにバッティングもパワーアップし、飛距離もどんどん伸びていった。