巨人・炭谷銀仁朗はナイスガイ。万全の準備と仲間への気配りを忘れない (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual

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「ほんと、ハンパないしんどさで、あの頃は泳ぎにいくのが嫌で......。月曜から土曜まで毎日夜の7時から2時間。夏休みや冬休みは、朝6時から9時までの3時間と、夜7時からの2時間の1日5時間。とにかくきつかったです」

 天真爛漫な実由記さんは「行ってしまえば楽しんで泳いでいましたよ」とあっけらかんと振り返ったが、小学生にしては相当ハードな日常だったことは容易に想像がつく。そのなかでたくましい肉体と精神を身につけたのだろう。

 当時、野球との関わりは遊び程度だったが、炭谷にとって運命的ともいえる出来事が起きる。1997年、炭谷が小学4年生の時だった。

 この年、長らく低迷していた平安はエース・川口知哉(元オリックス)を擁し、甲子園に春夏連続出場を果たす。そして春はベスト8、夏は準優勝という快進撃を続けが、炭谷は甲子園での全9試合をアルプススタンドで観戦。選手たちと揃いの特製ユニフォームを着て応援した。龍谷大平安の原田英彦監督が振り返る。

「当時は部員が少なくて、3学年で21人。ベンチ入りの16名にボールボーイの子らを除くと、アルプススタンドにユニフォーム姿がまったくない。いくらなんでもこれは寂しいと思って、僕の同級生に『子どもがいるところは応援に出してくれ』と頼んで、そのなかに"ギン(炭谷)"もいたんです」

 先述したように、英毅さんは平安出身で原田監督と同級生。自身は入学時、野球部に籍を置いたが、その後応援部に移り、3年夏は団長としてスタンドから野球部員に声援を送った。

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