大谷翔平はマンガを超える伝説級の存在。
指名打者→クローザーのち衝撃が走った

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Kyodo News

 大谷の1年冬には、当時私が編集部員として勤めていた『野球小僧』(現・野球太郎)でインタビューをした。大谷にとって、試合後の共同記者会見以外で個別インタビューを受けたのはこの時が人生初だったという。こちらの質問に一つひとつ頭を悩ませ、短いセンテンスで答える、初々しいインタビューだった。

 そんななか、大谷が唯一胸を張って答えたのは、将来の夢について聞いたときだった。大谷はこう言った。

「世界で通用するプロ野球選手になりたい」

 今となっては、十分に目標を達成したと言える。世界で通用するどころか、世界の野球史に残る選手になったと言っても過言ではない。

 だが、もし大谷を取り巻く環境が常識に縛られていたら、「投手・大谷」は高校時点で終わっていたかもしれない。

 というのも、大谷は高校2年時に股関節の骨端線損傷を負い、本来の投球を見せられなくなっていたからだ。2年夏、3年春には2季連続で甲子園に出場したものの、いずれも初戦敗退。股関節をかばい、左足の踏み込みが浅い痛々しい投球フォームだった。

 その一方で、著しい成長を見せたのがバッティングだ。長期間にわたって本格的な投球練習ができなかった分、打撃練習をする機会が増えた。その結果、高校入学直後から中軸に座るほど高かった打力がさらに向上。3年生になると、大谷は手がつけられないほど打ちまくった。

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