松坂世代のいま。PL出身・大西宏明が波乱万丈の野球人生を振り返る (2ページ目)

  • 広尾晃●文 text by Hiroo Koh
  • photo by Kyodo News

「全日本メンバーに選んでいただいて、注目されるようになったんです。瀬野監督のお父さんが堺ビッグボーイズの代表をされていて、PLに行くように勧めてくださったんです。でも、高校野球にそれほど興味はなく、"天下のPL"ということも知りませんでした。でも、PLに行かなければ、今の僕はなかったですね。

 PLは本当に厳しかった。堺ビッグボーイズの比ではありませんでした。全寮制で、上下関係が厳しく、暴力の"ご指導"もありました。当時は堺ビッグボーイズからPLに進んだ先輩が少なく、そういう文化を知らなかったので、正直、驚きました」

 当時、高校球界屈指の強豪校だったPLでも、大西はチームの主力として活躍する。

 3年春(1998年)の甲子園では、準決勝で松坂大輔(現・西武)を擁する横浜(神奈川)に2対3と敗れたが、この試合で大西は2安打を放っている。

 そしてこの年の夏の甲子園で、PLは再び横浜と準々決勝で対決し、球史に残る死闘を演じる。「5番・センター」で出場した大西は、この日も松坂にタイミングが合っていた。2回に先制点につながる中前打、7回にも右前打を放っていた。

 試合は延長戦に入り、横浜が11回表に1点を勝ち越すが、その裏PLは平石洋介(現・ソフトバンクコーチ)がヒットで出塁。3番の本橋伸一郎が犠打で送るも、4番の古畑和彦は三振。二死二塁となり、大西にこの日5回目の打席が回ってきた。そして大西は三遊間を破るヒットを放ち、平石が生還。この時、大西は三振に倒れた古畑に「打ってくるわ」と言って打席に立ったという。

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