2020.04.21

「あれ以上の感動を与えるのは無理」
山本和範が奇跡の一発で引退を決意

  • 田尻耕太郎●文 text by Tajiri Kotaro
  • photo by Kyodo News

 すると、二軍時代の山本を知る南海(現・ソフトバンク)の穴吹義雄監督から誘いがかかり、1年のブランクを経て1983年にプロ野球選手として返り咲きを果たしたのである。

 そこから開花は早かった。無類の勝負強さを発揮して、1984年にはライトのレギュラーに定着。のちに山本はこう語っている。

「近鉄では精神的な強さを身につけられたし、南海やダイエーではファンの温かさに触れて、それが自分のパワーになっていくし、応援のおかげで自分の力以上のものが出せました。ファンのおかげなんです」

 1988年オフに南海が身売りされ、福岡ダイエーホークスが誕生。当時はまだ数少なかった地元・福岡出身の主力選手として絶大な人気を誇った。1994年には「バントをしない2番打者」という斬新な役割で活躍。世に登場したばかりのイチローと首位打者争いを演じ、打率.317(リーグ2位)の好成績を残した。この年のオフの契約更改では年俸2億円に達し、それも話題になった。

 しかし翌年、開幕早々に右肩亜脱臼で長期離脱。ホークスでは自身最少の出場46試合、成績も打率.201、0本塁打に終わった。皮肉にも高年俸が仇(あだ)となって、退団を余儀なくされた。この時、すでに38歳だった。

 だが、もうそろそろ......などという考えはまったくなかった。なんと、近鉄のテストを受けて再入団。すると、往年の輝きを取り戻し、1996年のオールスターにファン投票で出場を果たした。