2020.01.09

宮本和知は突然のロス五輪出場に戸惑い
「うれしい気持ちはほぼなかった」

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Nikkan sports/AFLO

 山口県で生まれて、中学の途中までサッカー少年だった宮本は、下関工で初めてピッチャーとなった。高校2年の秋、中国大会へ進むも準々決勝で岡山理大付に敗れ、センバツへの道が断たれる。3年の夏も山口大会の準決勝まで勝ち上がりながら、下関商に負けて甲子園出場は叶わなかった。

 卒業後、社会人で野球を続ける道を選んだ宮本は、倉敷を本拠としていた川崎製鉄水島の野球部へ入部する。入社2年目、宮本は日本鋼管福山の補強選手として都市対抗へ出場するなど、徐々にピッチャーとしての才能を開花させていた。

「僕がキューバ戦の全日本メンバーに選ばれたのは、左ピッチャーだったということと、変化球が評価されたからだと思います。僕はアメリカやキューバにはあまり投げるピッチャーがいない、タテの緩いカーブが武器でしたから、外国人のバッターには有効だと思われたんでしょう」

 アジア最強を自負していながら、韓国、チャイニーズ・タイペイの後塵を拝し、20年ぶりに行なわれる五輪野球の舞台にさえ立てない状況になっていた日本。しかしソウル五輪を見据えて行なわれていたキューバとの強化試合の最中、思わぬ報せが届く。

 突然、ロサンゼルス五輪への道が開かれたのである。

 当初、開催国のアメリカ、キューバ、ニカラグア、韓国、チャイニーズ・タイペイ、イタリアが参加する予定だったロサンゼルス五輪の出場を、キューバが辞退したのだ。世界は東西冷戦の真っ只中、1980年のモスクワ五輪を西側諸国がボイコットしたことへの報復として、ソビエト連邦がロサンゼルス五輪をボイコットした、その余波だった。

 キューバの辞退で野球競技のレベルの低下を懸念したIOCは、代替出場のドミニカ共和国に加えて、さらに出場枠を2つ増やし、日本とカナダに出場を要請した。日本は急遽、ロサンゼルス五輪に出場することになったのだ。宮本が続ける。