2019.12.23

剛腕・山口俊を大成させた柔軟な体。
野球への情熱と鋼の意志も凄かった

  • 谷上史朗●文 photo by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

 1年秋の大会が終わると、よりストレートを磨くためカーブ以外の変化球を封印。3年春のセンバツまで2つの球種で通した。この結果、高校1年夏に最速138キロだった球速は、2年で145キロ、3年になると151キロに達した。

 しかし、順調にアップする球速とは裏腹に、試合では悔しい敗戦を繰り返した。2年夏は県大会準決勝(対明豊戦)で9回裏に4点を奪われ逆転サヨナラ負け。雪辱を期した秋は県大会、九州大会、神宮大会を制したが、優勝候補と目されて臨んだセンバツは初戦敗退。さらにカーブ以外の変化球を解禁して挑んだ夏は、準決勝(対別府青山戦)の試合中にヒジを痛めて降板。チームも延長の末に敗れて、山口の高校野球生活は終わった。

 当時監督だった藤久保茂己に山口の魅力について聞くと、こんな話をしてくれた。

「まず山口に感じたすばらしさは、野球にかける情熱です。『絶対に甲子園に行くんだ』『絶対にプロに行くんだ』という強い気持ちがあふれていました。練習を見ていても、取り組みが違いました。私もいろんな選手を見てきましたが、やっぱりそこなんです。いくら能力があっても練習をしない選手は伸びない。だから山口を見て、これだけ高い意識を持ってやっているなら大丈夫だと」

 そして話は、高校進学の際のエピソードに広がった。

「山口の地元である中津から宇佐に来るというのは、相当の決意がいるんです。逆ならなんてことないんですけど。まして山口のところは、お父さんが中津工業から相撲界に進んで、その時に地元の人たちからいろいろと世話になっていたはずです。普通なら『中津の高校でないと』となるんです。でも、山口本人が『柳ヶ浦でやりたい』と言った。相当悩んだと思いますし、私の感触では8割方、地元の高校に行く方向で話が進んでいたと思います。最後の最後で、自分の意志を貫いた。『あとのことは心配するな』と送り出したご両親も立派だと思いましたね。それだけの覚悟を持ってウチに来ましたから、最初から野球に取り組む姿勢が違いましたね」