愛甲猛が明かす根本陸夫と星野仙一の人心掌握術「選手を尊敬してた」 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Kyodo News

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 ドラフト1位で入団した愛甲にすれば、「これだけの選手をドラフト外で獲るのか」という驚きもあった。と同時に「よそのスカウトが目をつけない選手に目をつけて発掘してくるんだな」と想像するほど、弱冠19歳にして球団の戦略を興味深く見ていた。それにはワケがある。西武の新人補強に暗躍していたプリンスホテル総支配人、幅敏弘が父親代わりだったからである。

 幅はプリンス硬式野球部のスカウティングにも携わり、西武監督兼管理部長の根本を裏で動かすフィクサーだった。西武グループ総帥で球団オーナーの堤義明はプリンスの社長でもあり、堤と近い位置にいる幅は根本にとって頼りになり得る存在。言うなれば、裏の裏で動いた幅と実質的GMの根本がタッグを組んだ結果、後の西武黄金期の下地がつくられた。そうした関係性があったから、幅を「オヤジ」と呼んだ愛甲はプロ入り前から根本とも面識があった。

「根本さんは西武の監督、管理部長、という印象が変わったのは、オヤジと僕が一緒にいて、根本さんもおられる時。面会に来た人が根本さんに接する態度を見ていて、この人は普通の人じゃないんだな、と思って。だんだんと球界内での根本さんの立ち位置がわかってきたら、とんでもない人なんだと気づきました。僕ら西武と対戦した選手の立場からすると、広岡(達朗)監督、森(祇晶)監督でさえ、全然、頭が上がらなかった人、というだけですごすぎるんですよ」

 フロント入りし、実質的GMになった根本に代わって広岡が監督に就任した82年から、西武は2年連続で日本一。広岡に代わって森が監督に就任した86年からは3年連続日本一になると、1年おいて90年から再び3年連続日本一、リーグ5連覇。まさに黄金期を迎えた一方、ロッテは低迷し、Bクラスが続いていた。

 その間、落合博満の助言もあって打者に転向した愛甲は、徐々に打力が向上。落合を師と仰いで技術を高めると、86年からレギュラーに定着。88年から92年にかけて535試合連続フルイニング出場も達成(2018年に西武・秋山翔吾に破られるまでパ・リーグ記録)するなど、ロッテの中心選手となった。そうして迎えた93年=FA制度導入元年、権利を取得した愛甲に1本の電話が入った。シーズンオフ、ロッテが中日と合同で韓国遠征に行っている時のことだ。

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