初の日本一直後に不穏な空気。八重樫幸雄が明かす広岡ヤクルトの不和 (4ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

――あの場面で1時間19分も中断したのに、ヤクルト先発の松岡弘さんは集中力を途切れさせずに、その後も投げ続けたのは立派でしたよね。あの場面を松岡さんに尋ねたら、「ゆっくり休む時間をもらって、逆にリフレッシュできた」と話していました。

八重樫 この時、僕はケガをしていたからブルペンの様子は見ていないんだけど、あれは松岡さんだから、その後も投げることができたんだと思いますよ。もしも、安田(猛)さんだったら、たぶんダメ(笑)。松岡さんは最後まで集中力を切らさないタイプで、安田さんは「早く再開しろよ」って、イライラするタイプだから。

――結局、この試合にヤクルトは勝って、チーム初の日本一に輝きました。喜びも格別だったんじゃないですか?

八重樫 それはやっぱり、とっても嬉しかったですよ。でも、その翌日にはもうすでに、チームの中に「広岡監督は、もういいや」みたいな雰囲気が蔓延したんだよね......。

――えっ、せっかくチーム初の日本一になったにもかかわらず、すぐにそんな不穏なムードになったんですか?

八重樫 そう。優勝後、東京と大阪で、球団が決めた祝賀パーティーがあったんだよね。でも、それが終わるとすぐに競技場を借りて秋季練習が始まったんです。普通、優勝した後のオフはサイン会だ、トークイベントだって、選手にとっては副収入を稼ぐ絶好のチャンスなんですよ。それなのに約1カ月間、猛練習。広岡さんは来年も結果を出すために必要だと思ったんだろうけど、キャンプが終わった頃には世間の人たちも優勝、日本一のことは忘れているから、ベテランの人たちはみんな怒っていたよね。

――「守備に難がある」という理由で、主砲のチャーリー・マニエルを近鉄に放出して臨んだ翌79年は開幕から連敗が続き、広岡監督は途中休養。チームは日本一から一転して、最下位に沈みました。その原因は、前年のオフにあったんですか? 

八重樫 マニエルの場合、実力はあったんだけど、彼はちょっと日本をナメすぎ。ハッキリ言って、チーム内では人気がなかったから。でも、それよりも優勝した年のオフの不満のほうが大きかったと思うけどね。優勝したすぐ後にサイン会とか開かれていたら、結果は違ったと思うんだけどな。「楽しみ」の部分が失われたのが、意外と大きかったと思いますね。

――広岡さんは1979年限りでチームを去りました。もしも、「広岡監督がヤクルトに遺したものは?」と質問されたら、八重樫さんは何と答えますか?

八重樫 それは、その時に指導を受けた選手たちだと思います。杉浦(享)、渡辺(進)、水谷、そして僕。そうした中堅選手たちが広岡さんの時代に育って、その後に長くチームを支え、現役引退後もコーチになってチームに残ったわけだから。

――では、最後の質問です。八重樫さんから見た広岡監督はどんな指導者で、どんなことを学びましたか?

八重樫 広岡さんの言うように、「厳しく基本を徹底したら、チームは強くなるんだ」ということを学びましたね。ただ、固定観念が強い部分があって、それを嫌う選手との衝突があった。「その点だけは、なんとかならなかったかなぁ」という思いは、今でもありますね。

(つづく)

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