伊東勤がイヤだった「秘蔵っ子」の呼称。
「森祇晶監督と衝突もあった」

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

西武×ヤクルト "伝説"となった日本シリーズの記憶(42)
【司令塔】西武・伊東勤 後編(前編はこちら>>)

【1992年は苦しみながら勝ったシリーズ】

――前回の続きを伺います。1992(平成4)年の日本シリーズ。3勝3敗で迎えた第7戦。得点は1-1の7回裏、ワンアウト満塁の場面で、スワローズの代打・杉浦享さんが放った打球は緩いセカンドゴロとなりました。そして、セカンドの辻発彦さんからのバックホームへの送球は高めに浮きましたね。

伊東 満塁なのでタッチプレーではなく、フォースプレーでしたから、「とにかくホームベースに触れさえすればいい」という思いでした。辻さんからの送球が高めだったので、ジャンプをしたけど、頭の中には「左足だけはベースを踏んでいよう」という思いがあったので、後からこの場面の写真を見ると、変な形で左足を曲げたままでジャンプしていますね。

映像を見ながら当時を振り返る伊東氏 phot by Hasegawa Shoichi映像を見ながら当時を振り返る伊東氏 phot by Hasegawa Shoichi――スワローズの方々に話を聞くと、この場面で三塁走者だった広澤克実選手に対して、「スタートが悪かった」「スライディングに力がなかった」など、この場面を悔やむ発言が多く見られました。

伊東 確かに送球は高かったし、広澤のスライディングにもミスがあったのかもしれないけど、僕が捕球した時点ではまだ「広澤がすぐそこまで来ている」という感じではなかったので、いずれにしてもアウトだったと思います。広澤には「何としてでもゲッツーを食い止めたい」という思いがあって、あのスライディングになったんだと思いますけど、あのタイミングでのゲッツーは無理だったので、普通のスライディングでよかったと思います。

――1992年第7戦はお互いに相譲らず、この年4度目の延長戦となりました。

伊東 この日の先発の岡林(洋一)が本当によかったですからね。僕の意識としては「打ち勝つ」という思いはまったくなく、「守り抜く」というイメージで戦っていました。でも、この頃の西武は、シーズン中でも「ここぞ」という試合、「天王山」と呼ばれる試合にはことごとく勝っていましたから、「この日も勝つ」という思いは持っていたと思います。結局、4勝3敗で西武が日本一になりましたけど、苦しみながら勝ったシリーズだったと、今でも思いますね。

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