「ブンブン丸」池山隆寛がノーステップで打った! 野村ID野球の神髄 (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

【それでも、西武のほうが実力は上だった】

――みなさんに質問しているのですが、この2年間の両チームの戦いは、ともに7勝7敗で日本一には一度ずつ輝いています。両チームの決着は着いたのでしょうか? スワローズもライオンズも互角だったのでしょうか?

池山 ......互角っていうことはないよね。西武のほうがずっと上だったと思いますよ。1992年は西武にまったく追いつけずに敗れてしまった。でも、1993年は何とか西武に勝つことができた。それは、力をつけつつあるヤクルトナインがひとつになって掴んだ勝利。でも、だからと言って「西武に追いついた」とは全然思いませんね。

――その少し先の話になりますが、1997年の日本シリーズは野村監督率いるスワローズと、東尾修監督率いるライオンズとの戦いとなり、スワローズが4勝1敗で圧勝しました。この結果はどう受け止めていますか?

池山 この時の西武は森さんの時代とはまったく別のチームでしたからね。石毛(宏典)さんも、秋山(幸二)さんも、清原(和博)もすでにチームを離れて、若い選手が中心のチームになっていましたから。だけど、この時も「西武に追いついた」とは思わなかったですね。むしろ、「西武が落ちてきた」という印象のほうが強かったかな?

――あらためて、この2年間を振り返っていただけますか?

池山 僕にとっては(1992年が)初めての日本シリーズで、2年とも主力として戦うことができたシリーズでもありました。それ以前は、野村監督の就任によって自分のバッティングスタイルについて迷ったり、悩んだりしたこともあったけど、「優勝」「日本一」という結果によってそれも吹っ切れました。

 自分ひとりでは決して「優勝」「日本一」という称号は得られなかったと実感したし、本当に成長できた2年間でした。広沢さんしかり、古田(敦也)しかり、もちろん僕も、それぞれ波乱万丈でいろいろ苦労しながらつかんだ日本一でしたから。やっぱり、日本一の瞬間で、すべてが報われるんです。

――1992年の敗戦があればこそ、翌1993年の栄光の重みも変わってくるんでしょうね。

池山 同じチームを相手に、2年続けて第7戦までもつれこんだんだから、究極のシリーズだったと思いますよ。勝利の女神がどっちに微笑むのか? 野球の魅力がたっぷり詰まった2年間でしたよね。だからこうして、今でも語られることが多いんだと思います。

(つづく)

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