2019.09.13

池山隆寛が広沢克己のあのプレーに言及
「野球の歴史を変えたのは事実」

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

――その場面については、後編で伺おうと思います。さて、チームにとっては14年ぶりの優勝ということで、1992年当時のスワローズのみなさんは口々に「シリーズ前は緊張していた」と語っていました。池山さんはいかがでしたか?

池山 僕はそんなに緊張はしていなかったと思います。その後、1993年、1995年、1997年、2001年と4度の日本一になりました。責任の重さを感じたり、短期決戦の怖さを知ったりすることで、年齢を重ねるごとに緊張していったけど、1992年のシリーズでは緊張感はそんなになかった。むしろ、セ・リーグ優勝を決めた(1992年10月10日の)阪神戦のほうが緊張しましたね。あのときはベンチの中で杉浦(享)さんに、「落ち着けよ」とずっと背中を叩いてもらっていたことを覚えています。

【自ら希望して、背番号36から背番号1へ】

――池山さんにとっての1992年は、リーグ制覇、日本シリーズ出場に加えて、それまで背負っていた背番号36から、背番号1に変わった年でもありますね。

池山 そうですね。それまではヤクルトを代表する若松(勉)さんがつけていた番号でしたけど、若松さんの引退後はしばらく誰もつけていなかったので、「僕につけさせてください」と直訴し、いただいた番号です。実は、年俸交渉の一環として背番号1を要求して、「1を与えるわけにはいかないから、その分、年俸を上げる」という言葉を期待していた部分もあったんですけどね。年俸は上がらず、背番号1はもらえた、というのが実際のところです(笑)。

――池山さんが背番号1を受け継いだことで、その後、岩村明憲、青木宣親、山田哲人へと受け継がれ、今では「ミスタースワローズ」の象徴のような番号になりましたね。

池山 この番号をつけることで、チームの看板としての自覚も芽生えたし、責任感も強くなりました。常に試合に出続けて、グラウンドで目いっぱいのプレーをする。その伝統は今でも受け継がれていると思いますね。

――当時、ライオンズの清原和博さんとの対決も話題となりました。おふたりはプライベートでもつき合いがあったようですね。

池山 オフになると、一緒に食事をしたりしましたね。あるときに、「池山さんが日本シリーズに出たら、活躍できますよ。そういうタイプです」と言われたことがありました。だから、日本シリーズ出場が決まったときは「これで清原と対決できるんだ」って嬉しかったし、楽しみでしたよ。

――ところで、当時、池山さんにとってのライバルは誰だったんですか?

池山 チーム内では広沢(克己/現・広澤克実)さんで、他チームでは清原でしたね。1995年に広沢さんがFAで巨人に移籍してからは、チーム内にライバルがいなくなって、気持ちに変化が生まれた気がします。

――当時のスワローズの方々にお話を聞くと、「西武に勝てるわけがないと思っていた」という声がたくさんありました。池山さんはいかがでしたか?

池山 確かに「ひとつ勝てればいいな」という思いもあったような気がします。「トータルで西武に勝てる」とは思っていなかったけど、シリーズをトータルで考えるというよりは、目の前の試合は「絶対に勝ちたい」とは思っていました。