秋山幸二が語る西武の黄金期「『必勝法・必敗法』という冊子があった」 (2ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

――戦前には、森、野村両監督を称して「キツネとタヌキの化かし合い」とも言われていました。この連載に登場した石毛宏典さんは、「野村さんのID野球ばかり注目されていたけど、うちだってデータに基づいた細かい野球をやっていた」と言っていました。両チームはやはり、似ていたのでしょうか?

秋山 両チームともに細かい野球をやっていたのは間違いないですね。石毛さんの言うように、うちだってヤクルトよりも早くデータ野球はやっていました。広岡(達朗)さんの頃からずっとバント守備、けん制でのサインプレー、1球ごとの守備位置の変更などを徹底していたし、当時は「必勝法・必敗法」という冊子があって細かい野球を学ばせられたし、ミーティングもいっぱいやっていましたから。チームとしては似ていたと思うけど、野村さんよりもずっと早く、西武はそういう野球をやっていたと思いますよ。

【「西武のON」を目指して背番号1に】

――この連載で共通しているのは、スワローズOBは一様に「ライオンズに勝てるとは思っていなかった」と話すのに対して、ライオンズ関係者は「シリーズを楽しんでいた」と語っていることです。秋山さんはいかがですか?

秋山 ペナント開幕前には、パ・リーグではうちが勝つ前提で「セ・リーグはどこが(日本シリーズに)出てくるのかな?」という思いは持っていたと思いますよ。それに、何度も日本シリーズに出場して"シリーズ慣れ"していたこともあって、みんな楽しんでいた部分も大きかったんじゃないかな? たぶん他の選手もそうだと思うけど、僕の場合は「どうやってアピールしようか?」とか、「MVPを獲りたい。優秀選手賞がほしい」という思いで、楽しくやっていた感じはします。

――スワローズサイドでは、広澤さんなども「シリーズ初戦は震えが止まらなかった」とおっしゃっていましたが、それとは対照的ですね。

秋山 もちろん、西武の選手だって最初はそうでしたよ。でも、それがだんだん慣れていくんです。そうして、「日本一」に対しての思い入れが強くなっていったし、緊張するよりも先に「どうやって目立とうか、どうやって賞を獲ろうか」というところに意識が向いていったんだと思います。むしろ、シリーズよりも普段のペナントレースのほうが、危機感がありましたから。

――当時のライオンズではチーム内の競争も激しかったそうですね。

秋山 当時の西武の選手はみんな常に危機感を持ちながらプレーしていたと思います。もちろん、僕だってそうです。ケガで休んだらすぐにポジションを奪われるという危機感があったし、たとえば試合前にテーピングをしていると、石毛さんが「おい秋山、その程度のケガでまさか休まないよな?」なんて言われていましたから。だから僕も、石毛さんがどこかを痛めても、「もちろん試合には出ますよね?」「当然、出るよ!」なんて会話を普通にしていましたね(笑)。

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