2019.09.08

借金返済のためプロ野球に「転職」。
酒豪打者・永淵洋三の数奇な人生

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「いきなり三原さんが、『永淵、ピンチヒッターいけ』って言う。でも僕は全然バッティングやってなかったから、何言ってんのかな、このおっさんは、と思ったけど、監督命令やから。それでバッターボックスに入って、たまたま1球目、センター前ヒットを打ったんです。これでやっぱり、僕の使われ方が変わって、人生も変わったんですね」

 三原はのちに永淵さんの打撃を、「ピンチヒッターでいって、1球目を振って、芯に当てる。これはいいものを持ってる」と評した。同年の近鉄は左投手が4人と少なかった上に、左打者にしても全野手のうちわずか3人。投打とも左不足というチームの台所事情が、永淵さんを投手専任にしておく手はない、という発想につながった。

「三原さんは前の年に大洋の監督を辞められて、近鉄に来られた。僕と入団がおんなじ。これもひとつの縁だったと思います」

 巨人、西鉄を優勝に導き、60年には6年連続最下位の大洋を日本一へ引き上げた監督。球団創立以来、18年連続Bクラスと低迷し、「万年最下位」とも言われていた近鉄とすれば、大洋と同様の成果を期待したのだろう。

 三原は先入観にとらわれず選手の個性を重んじ、能力を最大限に発揮できるよう適材適所で起用し、戦う集団に仕上げていく。特に大洋では、埋もれていた選手に光を当て、継投から代打・代走まで含めた巧みな起用を見せた。

 その上で最高の結果を出したことから「魔術師」と呼ばれたが、まさに永淵さんは三原野球に見合った選手と思える。実際、永淵さんの入団発表のとき、球団部長が記者団に向かって「ショート・リリーフ、代打、代走。いろんな場面に使える三原監督好みの選手」と紹介したという。紅白戦での代打起用も、あらかじめ構想にあったのかもしれない。