2019.08.15

「両方打ちゃあいいんだ」。
柴田勲は、いきなり監督命令でスイッチに

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「オレは子どもの頃から右投げ右打ちだったんだけど、中学のときにね、ちょっと左で打ったことがあるのよ。最初は遊びで練習して、試合でも打ってみたりして。ミッキー・マントルにあこがれてたからね」

 いきなり、マントルの名前が出た。中学時代からメジャーのスイッチヒッターに興味を持っていたとはすごい。

「でも、その当時、今みたいに情報がないからさ、どんな選手なのかはわからない。それはもう野球雑誌で写真をチラッと見て、アメリカにスイッチヒッターでマントルっていうのがいる、ってのを読んだり。あとは映画館に行って、たまぁに動いてるとこをニュース映像で見たり。そんなことで、いる、っていうことだけ知ってて、結局は右打ちに戻って高校に行って、ピッチャーをやるわけだけど、オレはもともとバッティングは悪いほうじゃなかった。甲子園でも結構、打ってるしね」

 柴田さんは高校時代、法政二高(神奈川)の2年生エースとして、60年夏の甲子園でチームを優勝に導く。翌61年のセンバツでも優勝し、夏春連覇を達成。同年夏の甲子園はベスト4も、柴田さん自身は甲子園で投手として12勝1敗、打者としては14試合で46打数19安打、打率.413と打ちまくっている。

「で、3年の夏に負けて帰ってきて、当時はまだドラフトがない、自由競争だからね。ジャイアンツからは川上監督がスカウトに来てくれて、南海(現・ソフトバンク)からも監督の鶴岡一人さんが来てくれて。

 周りは鶴岡さんの人柄に惚れたっていうのかな、『南海がいいんじゃないか』と言うんだけど、オレは子どもの頃から巨人ファンだった。川上さんにあこがれ、その後にエンディ宮本さんにあこがれ、中学・高校時代は長嶋(茂雄)さんにあこがれ。そんなことで最終的には巨人に入ったんだけど、初めからどうも話がおかしかったんだよな」